第5章 摂津 壱
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光秀へ宣言した通り、母屋へ真っ直ぐに向かっていた凪は、先程交わしたやり取りを脳裏へ思い起こし、ふつふつと湧き上がる苛立ちに一人眉根を寄せた。
相手があのような軽口を叩いて来る事など、別に珍しい事ではないのだが、ああも笑われて小馬鹿にされては腹が立つというものだ。
「大体、仔犬仔犬って呼び過ぎ。小娘って呼ばれなくなったと思ったら、仔犬の頻度が増したよね」
初めて会った時から今まで、光秀は凪の名を一度も呼んでいない。
当初は間者の線を疑われていた所為で、敢えて名前を呼んでいないのかと思っていたが、それが晴れたにも関わらず、光秀は一向に凪の名を呼ぼうとはしなかった。
別に取り立てて呼ばれたいなどとは断じて、まったく思っていないのだが、小馬鹿にされた呼び方はさすがにいかがなものか。
自分は普通に当初から光秀と名を呼んでいるというのに、なんとなくフェアではないような気がして、凪はますます顔を憮然とさせた。
「まあいいや、細かい事は忘れよう…。光秀さん相手に文句言ったところで、さして効果なさそうだし」
この短い期間とはいえ、いい加減光秀相手に何事か反論をしてみたところで、のらりくらりと躱されてしまうか、あるいは倍になって反撃されるかのどちらかであると学習した凪は、意識を切り替えるように一度大きな溜息を漏らし、辿り着いた部屋の襖を開ける。
「……あれ?」
視界に映り込んだ室内の様子を前に目を瞬かせる。
零れた疑問は無意識のものであり、そのまま室内へ足を踏み入れると、凪は首を緩く傾げた。
湯浴み場へ向かった時には敷かれていなかった褥が、部屋の中に二組用意されている。
行灯に灯りが点いていたのは戻って来た時からそうであったので、宿の使用人が気を利かせてくれたのかと思ったが、褥はその時には用意されていなかった。
「じゃあ湯浴み行ってる最中に敷いてくれたのかな。…いや、それにしたって」
一人で疑問を解消するも、後ろ手に襖を閉めた凪は室内の中央辺りに用意されいる二組の褥に、つい半眼になる。