第5章 摂津 壱
「子供でも仔犬でもないですから、湯浴みくらいちゃんと出来ます。そんな事より光秀さんも早く入って来たらどうです?」
「ああ、そうしよう」
くつくつと喉奥で低く笑った光秀は、押し返された腕を大人しく引くと、鷹揚に頷いた。
壁から背を離す相手の姿を見ていた凪は、不意に何気なく問いかけ、首を傾げる。
「…私もここで待ってた方がいいですか?」
自らを見上げる凪の目にはこれといった他意はない。恐らく光秀がそうしていたから、同じようにした方が良いかといった意味合いでの問いであろう一言に、男の眼が一瞬ほんの僅かに見開かれた。
やがて、微かに肩を震わせながら堪らず笑いを零した男はその眸に揶揄の色を乗せて凪を見やる。
「俺の湯浴みを外で待とうとは大層な忠犬ぶりだ。なかなか健気で可愛い事を言うな、お前は。……褒美として呼称を忠犬に変えてやるとしよう」
「…っ、結構です!もう二度と言わないですから…っ」
笑われた事にますます顔を顰め、凪がそのまま背を向けた。
母屋へ繋がる廊下へ歩き出そうとした彼女の背へ、笑いを治めた光秀の声がかかる。
「部屋へは寄り道せずに戻れ。それから、何かあれば必ず声を上げろ。…いいな?」
「…わかりました、元々寄り道する気はないから大丈夫ですよ」
「それならいい」
顰めた表情は変わらないものの、振り向きざまに返された言葉を耳にし、短い相槌を打った。濡れた長い黒髪が揺れる、華奢な後ろ姿が母屋へ繋がる渡り廊下の向こうへ遠ざかっていく様を見送ったあと、光秀はようやく脱衣場へ足を踏み入れる。
後ろ手に戸を閉め、かんぬきをかけた彼はそのまま瞼を伏せ、小さく吐息と共に笑いを漏らした。
────── 本当に駄目だったら光秀さんが止めてるよね。
凪は聞こえていないと思っていたのだろう、脱衣場で零された彼女の独り言を思い出す。
零れたそれには、無条件の信頼が含まれていた。
確かに凪の言う通り、不適切な発言であれば止めていた。しかし、彼女は光秀の狙い通り、見事にその真の役目を打算もなく、自然にこなしてみせたのだ。
「────…態度の割には、随分と信用されたものだな」
その声に含まれていたのはどんな感情だったのか。問う者の居ない空間に男の笑いがまた一つ響いた。