第5章 摂津 壱
だん、と握り締めた拳を脇息へ強く叩き付けた八千の怒号が飛ぶ。
情けない悲鳴を漏らしながら怯える店主を前に、凪は咄嗟に口にしてしまった言葉が初老の男を追い詰めているのだと気付き、唇をわななかせた。
平伏の姿勢を保ち、幾度も自身が無関係である事と、詫びを繰り返している、丸まった背中を前にして自身の背筋が冷えて行く。
(どうしよう、まさか余計な事言った…?)
不安な色に染まった凪の白い顔を視界に捉えて、光秀はぱちり、と硬く高い音を立ててそれを閉ざした。
「八千殿の御怒りはごもっとも。……しかしながら、おそらく店主はこの件とは無関係でしょう。そうでなければ、貴方様の御前で自ら茶など煎れる筈がありません」
「…確かにそうかもしれませんな。私と貴殿が揃う場で、自らの身を晒すような行為をするなど愚かの極み…ではその奉公人とやらが…」
光秀の言葉を耳にし、些か冷静さを取り戻した八千は握り締めていた拳を解く。
いまだ震えたままの店主を一瞥した後で忌々しそうに呟いた八千を前に、光秀は身を硬くしていた凪の腰を片手で引き寄せ、そのまま頭を抱くようにすると彼女の緊張や不安を溶かすかのごとく、優しく髪へ唇を寄せた。
「…っ、」
「よくやったな、芙蓉。お前のお陰で八千殿は救われた」
「い、いえ…」
柔らかな声色で紡がれたそれに、凪が小さく身震いする。
幾度か唇を寄せた後、光秀は彼女の頭を抱き寄せたまま八千へ向き直り、やがて口許へ弧を張り付けた。
「この通り、芙蓉は私の不利益になる事は一切しない女なのですよ」
「…そのようだな。明智殿の御心内、しかと見せて頂きました。芙蓉殿、礼を言う」
「…そんな。八千様がご無事で、良かったです」
どうやら八千は店主が一件とは無関係である旨、そして光秀の信長に対する謀反の意志を信用したのか瞼を伏せて告げた後、凪へも礼を紡いだ。
光秀が片手を離すと同時、そっと顔を男へ向けた凪はぎこちなくも口許を笑ませてみせる。
「店主、もう良い。このような事があっては酒も喉を通らぬ。盃は不要だ」
疲労感を露わに片手をぞんざいに振った八千を前に、再度額を畳へ擦り付ける勢いで詫びた店主は、いそいそと部屋を後にした。