第5章 摂津 壱
少しの違和感────自分の仮の名を呼ぶ光秀の声が、ほんの僅かに硬い気がして弾かれたように顔を上げた凪は、彼がそうしたのは一瞬、自分の失敗を咎めたからだと思った。
「…八千殿の御手を煩わせるとは悪い子だ。こちらへおいで」
しかし、紡ぐ男の声は言葉の上では凪を軽く咎めていたものの、反して声色は柔らかい。
八千の中途半端に伸ばされた手は、凪の腕に触れるすんでで行き場を失っていた。
言われるがままに空の銚子を手にした状態で光秀の元まで戻れば腰を下ろすように促され、座布団から身を浮かせた彼は両膝をつき、自身の背で八千の視界から凪の姿を隠すよう位置を移動する。
片袖が濡れた打ち掛けをそっと脱がせてやり、次いで自身がまとっていた黒い羽織を脱ぐと彼女の肩へふわりと掛けた。
幸い、酒の量も多くなかった事もあり、中の小袖や肌までは濡れていない。
「世話の焼ける女だ」
短く告げられたそれは咎めているようで、存外暖かい。
光秀がそれまでまとっていた羽織に身を包まれると、一層彼の香りを感じる。光秀に背後から包み込まれているような錯覚を起こすそれに羞恥を覚えると、凪は赤くなった顔を見られぬよう俯き加減になった。
「すみません…」
羞恥と失態とで消え入りそうなそれを耳にし、咄嗟に俯いた彼女の頭へ持ち上がりかけた腕をその場へ留め、脱がせた打ち掛けを軽く畳んで傍らへ追いやった光秀は、元の位置に身を落ち着けると八千へ向き直る。
「俺の女が、失礼を致しました」
瞼を伏せる形で非礼を詫びた光秀を呆然としたまま見つめていた男は、不意に我に返った様子で緩く首を振る。当然だ、そもそも凪は非礼を詫びるような事などしていない。
あの盃は八千が意図的に取り落としたものであり、そしてそれに気付かない光秀ではないのだから。
「……ああ、いや」
「銚子の酒も空になったようです。盃も新しいものへ変えさせましょう。芙蓉、鈴を鳴らしておくれ」
「は、はい…っ」
案内された時、用があれば鈴を鳴らしてくれと店主が言っていた事を思い出し、光秀に言われるがまま膳の傍にある小さな鈴を手にし、それを幾度か振った。
ちりんちりん、と涼やかな音が室内に響いた後、程なくして閉め切った襖の向こうから声がかかる。