第62章 季節外れの春の訪れ
パッと左を見ると、杏寿郎の力強い双眼が至近距離で見開かれている。
「びっくりした!」
杏「ここ…んむ!!」
小声で驚いていると、杏寿郎がいつもの調子で喋ろうとするため、泰葉は慌てて口を塞いだ。
「しーっ!今、伊之助くん頑張ってるの。」
泰葉の一言で粗方理解した杏寿郎は、黙っていると約束する。
そして、2人で壁に背を張り付け、伊之助とアオイの様子を見守る。
ア「私は…皆さんのために当然のことをしてるだけです。」
伊「でも、アオコの作る飯が1番美味い。」
ア「伊之助さんは、私の料理しか食べてないから…。今度から禰󠄀豆子さんの料理を食べれば、そちらの方が美味しいですよ。」
アオイは突き放すような言い方をする。
だけど、その影には何とも言えぬ気持ちが隠れているようだった。
伊「俺は…!」
「俺は、禰󠄀豆子の飯が美味くても、アオコの飯が食いてえ!」
あら…
これは…。
泰葉と杏寿郎は顔を見合わせる。
伊「例え、権八郎達と暮らしても、お前の飯食いにくるからな!!」
ア「はっ?な、何で…」
伊「アオコの飯がいいからだよ!!…分かったな!!しょっちゅう来るからな!!」
「嫌でも来るからな!覚悟しとけよ!!アオイ!!」
伊之助は言い捨てるように、自分の言いたいことが終わるとドカドカと台所を後にする。
1人残った台所で、アオイはまた流しに向かう。
ア「そんなこと言わないで、黙って来ても作ってあげるわよ…。」
ア「…いつもはまともに名前呼ばないくせに…。
ばか。」
杏「春だな。」
「春ですね。」
今の季節は秋も深まり、風が冷たくなった頃。
だが、恋する彼らには吹きかける
季節外れの
春の訪れ。