第60章 君を傷つけない為に ❇︎
〜杏寿郎視点〜
今、俺は葛藤している。
あの修羅場としか言えない惨状で、怯えた泰葉さんを落ち着かせようと、とりあえずこの部屋へと移動したが…。
いい具合に暖かく、香りの良い部屋に布団が既に敷いてあり、ちり紙に屑籠…。
そして…『極楽浄土』と書かれた小袋…。
あれは宇髄が言ってた、通和散というものだろう…。
『女を傷つけないように、もし滑りが足りなければ通和散ってのを使うんだ。使い方は…』
あの時は話しか聞かなかったが…まさか、実際のものを目にするとは…。
いや、今日の予定の中に同衾が入っていなかったわけではない。
今日は父も、千も外出してくれたのは、きっと俺たちに時間は気にするなと言ってくれているのだろうと思う。
だがしかし。
こんな事態になるとは微塵も思っていなかった…。
成り行きで蕎麦屋の2階に来たは良いが。
今の泰葉さんを誘い込むのは、弱っているところに漬け込むようで…。
だが…些か、落ち着いたようにも見えるな。
「落ち着いたか?」
問いかけると、「眠くなってきた」と何とも脱力させるような柔い笑みを浮かべ、俺の右手を泰葉さんの左頬に添えさせる。
なんと可愛らしいことか。
この表情は俺以外、誰にも見せるわけにはいかない。
そう思っていると、泰葉さんはじっとこちらを見つめている…。
君は今、何を思っているのだろうか。
先程までの出来事か。
それともそれを忘れようと、日中の楽しかった事を思い出しているのか。
はたまた…俺のことだろうか。
一番最後ならば嬉しいなと思ってしまう。
申し訳ないが、いくら相手は心許した俺だとは言え、
男の腕にすっぽりと収まり、己の頬に手のひらを添えさせ。
無防備に笑う君に、欲情しない訳がない。
女将さんも、休むなり泊まるなりと言ってくれた。
…それは、そうしてやるのが男というものだと言われているのか⁉︎
喉がゴクリと鳴った。
そんな考えに至ってしまうのは、
泰葉さんが可愛らしいことと
ここ1週間ほどお預けを食らっているということ、
それと
泰葉さんが、ヤキモチを焼いてくれたということが原因だ。
「さて、蕎麦屋の2階…。ここが何用か分かるか?」