第60章 君を傷つけない為に ❇︎
杏「彼女の尊厳を守ろうと、見目は良いようだから他の人と出会えるだろうと言ってしまったんだ。それが俺が好意を持ってると勘違いさせてしまったんだな。」
「そうだったの…。」
それは盛大な勘違いだと思ったが、そう思ってしまうほど、あの男性との結婚が嫌だったのだろうか。
婚約している身でありながら、他の男に言い寄り、このような騒動まで起こした。
それでも、杏寿郎に掴みかかり、最後には一緒に帰ろうと言ってくれる人など、そういないだろう。
杏「…万が一。」
杏寿郎が泰葉の手を取り、手の甲を親指で撫でる。
杏「万が一、俺との結婚に不安だったり、嫌なことがあれば、遠慮なく話して欲しい。俺に話しづらかったら君の母上、胡蝶や甘露寺でも構わない。咲子さんでも良い。」
杏寿郎の顔を見上げると、少し不安気な色を灯す瞳。
「分かりました。でも、それはお互い様。約束したでしょう?」
杏「…そうだな。」
杏寿郎は柔らかく微笑むと、泰葉の顔を覗き込む。
杏「幾分、落ち着いたか?」
菜絵に狂気的な恐怖を感じたものの、女将の声かけで落ち着いた姿も見ていたし、別室に来たことにより泰葉は落ち着きを取り戻した。
「うん。落ち着いたみたい。このお部屋も暖かいし、何より杏寿郎さんにこうしてもらって…。
暖かくて、思わず眠ってしまいそう。」
へにゃっとした笑みを浮かべ、杏寿郎の、右手を泰葉が左頬に添えさせる。
杏寿郎は思わず生唾をゴクリと飲み込んだ。
杏「…眠く…か。」
「…ん?」
ほわほわした心持ちで杏寿郎の言葉を聞き返すと、変わらず笑顔の杏寿郎が見下ろしている。
やっぱり美丈夫だなぁ…とぼんやり思いながら。
綺麗な髪色。それに合わせたような太陽の瞳。
きりっと上がった二股の太眉。
まつ毛も長く、通った鼻筋。
きゅっと上がった口角…。
いつか膝枕で見たあどけなさはいくらか消えているようにも感じる。
それよりも、大人の男としての色気が上乗せされた…と言えようか。
そんな事を考えていると、杏寿郎がにこやかな表情のまま、泰葉に問う。
杏「さて、蕎麦屋の2階…。ここが何用か分かるか?」