第60章 君を傷つけない為に ❇︎
『あなたは前が見えていないの?』
そう優しくも、厳しい声を向けたのは女将さんだった。
大衆は自然と道を作り、そこを静かに歩いてくる。
『黙って見ていれば、勘違いしているのは間違いなく貴女です。煉獄様は、こちらの可愛らしいお嬢さんと夫婦になられます。この格好をしているのは、私たちがそうしたから。』
『アバズレだなんて、そんな言葉彼女には当てはまらないし、失礼極まりないですよ。』
菜絵はまさかの人物からの叱責に、目を丸くしている。
『本当にお慕いしているならば、彼の目を見ればすぐに分かるでしょう。それでも分からないなら、貴女の想いはその程度。愛も何もあったもんじゃない。自己満足です。』
菜「…な…!!」
『違いますか?彼は奥様を愛しておられる。お慕いしてるのであれば身を引きなさい。』
そうして、女将はそっと菜絵の背中に手を添えた。
『それに、こんな血迷ったようになった貴女をちゃんと迎えにきてくれる人、なかなかいないわよ?』
女将の視線の先には菜絵の婚約者。
疲れ切った顔をしているが、ずっとこの店を離れず菜絵を連れ戻そうとしていたのだ。
『菜絵…帰ろう?』
変わらずそう言ってくれる婚約者に、漸く菜絵は冷静を取り戻した。
彼女の目からポロポロと涙が溢れる。
『煉獄様、奥様を2階へ連れて行ってあげて下さいな。この女性は私が引き受けます。』
女将の一言で、杏寿郎が泰葉に目を移すと、少しカタカタと震えている。
菜絵の奇声、自分に掴みかかろうとしてきた事が少しショックだったのだろう。
杏「女将さん、恩にきる!!」
『一番奥の部屋が暖かくしてありますから。休むなり泊まるなり、好きにしてください。』
これだけの騒ぎがあったというのに顔色一つ変えず、安心させる笑顔を向ける女将には感服だ。
『さぁさぁ、お騒がせして申し訳なかったね!どうぞお部屋に戻っておくんな。熱燗と天麩羅でもつけようね!!』
店主も他の客人を気遣い声をかける。
店側は一つも悪くないのに、この対応は鑑だろう。
杏寿郎はひとまず泰葉を横抱きにし、女将に言われた通り、2階の奥の部屋へと向かった。