第60章 君を傷つけない為に ❇︎
杏「ん……!!」
菜「んなっ!!!」
『…………!!」
杏寿郎も流石に驚きのあまり身動きができない。
ちゅっ…と音を立てて唇を離すと、泰葉は菜絵を真っ直ぐ見据え、声を張り上げた。
「私の夫は、"煉獄杏寿郎"ですが、何か?」
菜絵は目をパチパチさせて、泰葉を見ている。
「煉獄きょうじゅうろうではなく、杏寿郎です!お慕いしているのであれば、名前を正確に覚えたらいかがでしょう?」
これだけ杏寿郎のこと、婚約者の男性のこと、この店にいる人たちを振り回しておいて、名前一つ正確に覚えておらず、尚且つそれでお慕いしていると、よく言えたものだと泰葉は腹が立った。
泰葉に指摘されて、きょうじゅうろうだと思っていた菜絵は赤面する。
菜「あ…やだ…違う、違うんです煉獄様!」
それでも杏寿郎に縋ろうとする菜絵に杏寿郎はため息をつく。
杏「よもやよもやだ。
…俺の妻の言う通りだ。悪いが、君に何度言われようが気持ちは変わらない。」
そう言って、杏寿郎は泰葉の額にちゅっと口付けた。
自分はもっと大胆なことをしたのだが、少し冷静になると恥ずかしかった。
『キィーーーーーーーーーー!』
途端に、菜絵の悲鳴のような声が響く。
ビクッと肩を震わせる泰葉。
杏寿郎は護るように抱き寄せる。
菜「何してくれてんのよ!!私の煉獄様に気安く触らないで!!」
泰葉を目掛けて手を伸ばし、飛びかかろうとしている菜絵を、杏寿郎がパシッと掴み止めた。
杏「君の内面を知らなかったから、見目こそは美しいかと思ったが…。どうやら俺の見間違いだったようだ。この話はこれで終いだな!!」
菜絵を睨みはしないが、目で「もう関わってくれるな」と言っているのがわかる。
それを菜絵は感じ取れていないのか、それともその上でなのか…。
菜「こんな女のどこがいいのよっ!!私の方が、私の方がっ!!」
『もうおやめなさい。』
まだ叫び続ける菜絵。
その菜絵を宥めるような声が静かに響いた。