第58章 逢瀬
杏「人前でも、ここでなら遠慮なく手を握っていられると思ったんだが…。君の気持ちも考えてやれず…不甲斐ないな。」
少し視線を斜め下に向けながら、切なげに話す杏寿郎。
会いたかったのは泰葉も同じ。
咲子の家では確かに楽しい時間を過ごしてきたが、やはり頭の中では杏寿郎が離れなかった。
「杏寿郎さん、ごめんなさい。そんなつもりじゃないのよ?」
泰葉は自然と引っ込めた手を伸ばし、テーブルの上に寂しく置かれた杏寿郎の右手を両手で包んだ。
杏「…いいのか?」
「だって…会いたかったのは私も同じだし…。」
すると、今度は杏寿郎の左手も登場して、逃すまいと泰葉の両手を包み返してきた。
杏「そうか!今日は逢瀬なんだ。恋人らしくしていようじゃないか!」
先程の切なげな表情は姿を消し、いつもの溌剌とした杏寿郎に戻る。
そして、そこで泰葉は気づいた。
「杏寿郎さん…?今の、まさか演技だったでしょう?」
ジトっとした目で少し睨むと、眩しい笑顔を返された。
杏「ん?何のことだ?嘘を言った覚えもないし、こうしていることが嬉しい!この話は終いだな!!」
泰葉の予想通り、ああすれば杏寿郎は泰葉が手を握ってくると読んでいた。
今回は杏寿郎が策士であったようだ。
そんな2人の様子を見ていたウェイトレス達。
『私…あの2人の仲を裂く気になれないわ…。』
『私も。』
『なんなら、ずっと見ていたい。』
戦意喪失。
これで安心して、美味しいものにありつけそうである。
ちなみに。
ウェイトレスが目が合っただの、自分を見ていただの…。
無論、杏寿郎が見ていたのは彼女の手元の料理や飲み物。
どんなものなのか、あれは何かと好奇心で見ていただけである。