第100章 数日前の話
後ろに座る女……ベルモットが静かに笑った。
『……にしても、どうして逃げたりしたのよ。私の厚意を無駄にしたわね』
「そんな事一言も頼んでなくてよ。でも、あちら側にいたから動きやすかったのも事実ね。まあ、借りだとは思っているから。貴女に化けて撹乱したらいいかしら?」
『……必要ないわ』
「そう」
注文したゼリーがテーブルに置かれた。それを見た光希がクイクイと私の服を引っ張る。
「ママぁ、あ!」
『はい、あーん』
光希が大きく口を開けた。そこへ小さくしたゼリーをそっと運ぶ。
『美味しい?』
「ん!」
口元をふにゃふにゃと緩ませながら目をキラキラと輝かせる。ああ、本当に可愛い。
「彼は、この子を知ってるの?」
『知らないよ。居場所もわからない』
「あの男の事だもの。死ぬなんて考えられないわ」
『そうね。元気だと嬉しい』
「本当に変わったわね。もちろんいい意味で」
コツ、とヒールの音がして視線を向ける。ベルモットが立ち上がっていて、その手には小さな紙があった。
「時々、声を聞かせて?貴女も、その子も」
『……ええ』
紙を受け取ると、代わりにベルモットは私達の伝票を手に取った。
「また会えたらその時ちゃんと祝わせて。それじゃあ、Good luck.」
ベルモットはひらりと手を振って去っていった。素敵な香りを残して。
---
『今日のご飯は、カレーにしようかなぁ』
「ん!」
『光希はカレー好きだもんね。デザートはプリンにしようかな』
光希は嬉しそうに小さな手をぱちぱちと叩く。材料もあるしまっすぐ帰ろう。
信号を待つ間、光希はずっと周囲をキョロキョロと見回している。そして、急に声を上げた。
「パパ!」
『何言ってるの……?』
光希を宥めるようにぽんぽんと背を撫でる。すると、ふわりと吹いた風に乗って香ったのは懐かしいタバコの匂い。こちらへ近づく足音。
世界から音が消えた気がした。スっと体温が冷えて、でも心臓はうるさく動いている。
意を決して、それでもゆっくり振り返った。
腰の下まであった髪は肩にかかるくらいまで短くなっている。帽子はなく、以前とは違う形のコートを羽織っている。
『ジン……?』
会いたくてたまらなかった、大好きな人の姿がそこにあった。