第8章 私には得られない存在
『そういえば、志保にも彼氏のこと話したの?』
「話したよ。もっと危機感持てって言われちゃった」
『あの子も明美のことが心配なのよ……たった1人の家族なんだから』
そこからはたわいもない世間話が続いた。
「……にしてもあの時は驚いたよ!電車の乗り方わかんないって……!」
『……もう、その話しないでって言ったでしょ』
前回明美と会った日。人生初の電車。切符の買い方もわからなくて、必死に笑いを堪える明美に教えてもらいながら、どうにか乗ることはできたのだけど……。
『今まで電車なんて乗ったことなかったんだから……』
「あはは……まあ亜夜の人間っぽいところ見れたからよかったけどね」
『人間っぽい?』
「うん。亜夜って何でもできるし、知ってることもいっぱいあって……所謂完全無欠みたいな感じだったけど、できないこともあるんだなって。ちゃんと人なんだなって嬉しくなったから」
『……そっか』
明美は私の外見だけじゃなくて、中身も見てくれてる。だからこそ、こんなに打ち解けられたのかもしれない。
『……明美に出会えてよかった』
「ん?ごめん、何か言った?」
『ううん、独り言』
その後も話題はなかなか尽きなくて、気づいたら夕方。
『そろそろ帰ろっか』
「そうだね……長居しすぎたかも」
『ごめんね……送って行けたらよかったんだけど』
「大丈夫だよ。寧ろ毎回送ってもらうなんて申し訳ないよ」
『そう言ってくれると助かる』
そう言って別れた。この後は取引の任務……今朝ジンから連絡があった。本当は1日フリーだったのに……そう思いながら愛車の元へ向かう。
黒のマスタング GT500
一目惚れして買った車。デザインもエンジン音も全部が好み。
乗り込んで変装を解く。まだちょっと余裕あるか……。
さっきの明美の表情を思い出す。
『恋人……か』
私には得られない存在。あれからジンへの想いが消えることはない。それでも、口に出す訳にはいかない。私達はあくまで都合のいい関係だ。
『今日も抱かれるのかな……』
初めて身体を重ねて以来、結構な頻度で呼び出される。任務が一緒の日はほぼ確実に。それでも、嬉しいと思ってしまう私は、もう戻れないのかもしれない。
『明日は……何もない』
……これはハードコースだな。ため息をついて車を出した。