第11章 浄土と氷獄
「鶴之丞の就寝時間は?」
「今日に限っては、酒を飲み続け、午後八時過ぎには蔵の反対側の居間で眠っております。おそらく朝までは起きないかと。番人たちも、旦那様が寝たことで気が緩んでいるはずです。二人の配置は、蔵の入口を挟むように立っております」
「了解しました。蔵の位置は、屋敷の母屋から死角になる、最も奥ですね」
おふみが頷くと、松乃は懐から一枚の和紙を取り出した。それは、実田が用意した裏山にある避難場所とその道筋を示す簡易な地図である。
「まず、菖蒲様の救助は、今夜のうちに完了します。鶴之丞に二度と菖蒲様に手を出す機会を与えてはなりません」
松乃の毅然とした言葉に、おふみは涙ぐんだ。
「松乃様……ありがとうございます。奥様は、もう、ほとんど食事を摂っていません。お水も、私が番人の目を盗んで、一日に一度、ほんの少ししか……」
「承知しております。だからこそ急ぐのです。おふみさん、あなたに託されたもう一つの任務があります」
松乃は、声をさらに潜めた。
「あなたと同じく、この非道な仕打ちに耐えかねている使用人は、屋敷に他に何人いますか?鶴之丞の行状を知り、逃げ出したいと願っている者です」
おふみは、ふたりの名を挙げる。中には、鶴之丞の暴力の対象となった若い女中もいた。
「この件には静代様も関わっております。神楽舞踊は一度門を閉じると仰り、その任もわたしども任務として課されております。しかし、それは菖蒲様が連れ出された後です。彼らが巻き込まれる必要はない。
夜の十時を過ぎに、必ず『全員で』この図の道順の通り、浦山へ逃げてください。この先には、私たちが用意した助けが待っています」
松乃は、逃亡資金として包んだ小銭を、おふみに手渡した。
「私たちは、十時半に救出を実行します。それまでに、あなたたちは屋敷から姿を消すのです。決して後ろを振り返ってはなりません。あなた方には、新しい人生を始めていただく必要があります」
おふみの瞳には、涙と共に、絶望からの解放という強い光が灯った。彼女は、静かに頷き、その場で立ち上がった。
「承知いたしました。必ず、皆を連れて、この地獄から抜け出します」
松乃は、おふみの肩に静かに手を置き、おふみは松乃に一礼した。
互いの連携の意思を確認すると、ふたりは再びそれぞれの闇の中に消えていく。
