第15章 隠蓮慕
口の中に残る鉄の味は、どんな極上の甘露よりも甘い。
甘さに痺れる心のまま、彼女を喰らってしまいたい衝動と、絶対に傷つけたくないという庇護欲が、身体の中でせめぎ合う。
「……ふふ、参ったな」
名残惜しい。
人間をこんなに暖かいと感じることはあっただろうか。
「君には、敵わないや」
菖蒲は、何事もなかったかのように微笑んでいるが、その頬は微かに紅潮している。
路地裏の湿った空気と、血の匂い。 ここは少し、二人の感情を昂らせすぎる。
ふと視線を上げると、路地を抜けた先に、古びたガス灯が頼りなく揺れる小さな看板を見つけた。
「……場所を変えようか。少し落ち着いて、君と話がしたくなった」
「はい」
菖蒲の手は暖かい。
でも、なんでだろうね。
もっとその温かさと柔らかい肉質に包まれている感触が
今まで感じたことがないほどに胸を締め付ける。
血の味と暖かさの余韻、確かめるように
その手をしっかりと握り直し、その店へと足を向けた。
そこは、小さな西洋風のカフェ。
誰も入ろうとしないその古い扉を、恭しく開け放った。
店内は薄暗く、客の姿はない。
琥珀色の静寂が、外の喧騒を遮断している。
菖蒲と向かい合わせの席に座ると、ハットを取り、テーブルに置く。
心臓あたりの暖かいざわつき。
いつもより笑ってはいるものの、ろうそくの灯のように柔らかく温度を感じる眼差しは、今までに恐らく感じたことがないし、誰からも向けられたことがないように思う。
「ねぇ、菖蒲。君は、今、幸せかい?」
なぜ、このような『正気か?』と問うようなザラメのような甘ったるい質問が出たのだろう。
質問をした俺の方が驚いていて、菖蒲は至極冷静にじっと俺の瞳の奥を観察するように見る。
温かみを増した光は朧気に影を纏い、
菖蒲は初めて、白い歯をのぞかせるように笑う。
「はい。お誘いくださってありがとうございます」
オレンジの照明のせいだろう。
はたまたは、先ほどの血の味の余韻がそうさせるのか
また心臓がうるさい。
どうして、彼女にはそのようなことができるのだろう。