第9章 炎と水
「俺は君が好きだから、諦める理由がない」
「でも、」
「君を好きでいるのも、諦めないのも俺の自由だ。違うか?」
「……違わない」
「だろう?」
杏寿郎は笑いながら懐から手拭いを出して、琴音の顔にぽふんとあてた。
「ぶっ!」
「ほら、鼻水が出てるぞ」
「ちょっと、もう!自分で拭けるよ!」
琴音は杏寿郎の手拭いを借りて顔を拭く。
拭きながら琴音も笑顔になる。
「やだ、本当に鼻水出てた!」
「大丈夫だ!泣いた時の鼻水は涙と同じものだ!出る場所が違うだけだから恥じることはない!」
「恥ずかしいよ!恥ずかしいの一択だよ!」
「ははは!」
「あははっ!」
二人で笑い合う。
いつも通りだ。
「お話聞いてくれてありがとう。杏寿郎さん」
「こちらこそだ。ちゃんと話してくれてありがとう」
「これ、洗って返すね」
「ん?別に構わないぞ」
「構うよ!鼻水ついたもん!」
「だから、涙と同じだと言っただろう」
「……よだれもついたもん。洗って返す」
「よだれは涙とは違うな。まあどっちにしろ俺は構わないが」
「ふふ、じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
琴音と杏寿郎。
お互いが大切な人であることに間違いはない。琴音がこの家へ来てもう六年になる。その間、互いに寄り添い合って生きてきたのだ。
兄属性を持つ杏寿郎は、琴音が小さい頃からいつも面倒をみてくれていた。そして煉獄家長男として厳しく育てられてきた杏寿郎には、琴音が癒やしを与え続けてきた。
しかし当然のことながら、杏寿郎は男で、琴音は女。年齢を重ねていく上で、そこに恋愛事情が絡むのは仕方のないことだろう。
今回こうして二人の間に『男女の洗礼』が降りかかったわけではあるが、それでも根幹の部分は変わらなかった。
部屋に戻った琴音は寝間着に着替えた。押し入れから布団を出して敷く。
「私、杏寿郎さんの優しさに甘えてるのかな」
右手で結紐を解き、首元でゆるく縛っていた髪を下ろす。手の中の結紐をじっと見つめた。
杏寿郎さん……
私を好きでいることが、辛くないといいな
早く刀を振れるようになりたい
そしたら、いろいろ考えなくてすむのに……
琴音はのそのそと布団に入り、ゆっくりと目を閉じた。