第2章 元カレ
目の前にあった五条の顔が少しずつ離れていく。やれやれ、といった表情で。右手が手すりから離れ、その手が目の前を通過しようとしたその時、未亜はその手をぎゅっと掴んだ。
「いいよ、襲っても……」
思わぬ言葉が口をついた。五条は手を掴まれると掴まれた手に視線を移し、声を聞くと今度は未亜の方に向き直って、2度びっくりしている様子だった。
その時、私はどんな顔をしていたんだろう?今もはっきり思い出せない。きっと顔全体が火に包まれたんじゃないかってくらい真っ赤だったんじゃないかと思う。
――急に世の中のすべての音が、ミュートされたんじゃないかと思うくらいに部屋は静けさに包まれた。
未亜は自分で言葉を発しておきながら、この空気にいたたまれなくなり、身の置きどころがなくなっていた。今すぐ訂正したい気持ちが、喉のすぐそこにまで迫っているのに、五条がなんと答えるのかが気になって、その言葉をぐっと飲み込む。
こんな無限ループの中、ドクドクドクいう心臓の音だけが、やたら大きくなっていく。
一方、五条はどうかというとこちらを見たまま動かない。室内は乾燥していないのに、未亜の喉はからっからだ。
ためらっているのか、軽蔑しているのか、冗談だと思っているのか、どれだけ五条を見てみても、サングラスの向こう側に焦点を合わせてみても、その表情が読み取れない。
「……おまえ、」
小さな声で五条がつぶやいた。
「いいのー? でも僕たち付き合ってないから、それってつまりセフレってこ――」
「ぁあー。もうそれ以上いい、言わなくていいから。ごめん、ちょっと寝ぼけてたみたい。忘れて!」
「高専の時だったら200%押し倒してたけどねー」
くっくっくっと笑いながら、五条は通常通りの空気に戻した。
未亜はそんな空気に戻ったことにホッと安心したのと同時に一抹の寂しさを覚えていた。
わかっていた。彼が放つあいまいな言葉や態度に意味なんか持たせちゃいけない、そういう奴だ。
でも、再会してからのこの3ヶ月弱、一緒に時間を過ごしてきて、ひょっとしたら、とか、呪術師をやめた今なら、と心のどこかで淡い期待が芽生えてしまっていた。
でも突きつけられた現実は……