第8章 空
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「あ、北さんお疲れ様です」
「おぉ、治も… ん?りさ子ちゃんは…… 何してんねや」
『あ、信介さん、お疲れさまです。
時間あったので治くんの好意に甘えて近くで見させてもらってて』
「そーなんす、卵焼き焼くとこ見たいとか言うんで」
『邪魔にならないようにひっそり。ぬか床返させてもらったりして』
「そか、そらえかったな」
「北さん、メシは食うてきました?」
「ばあちゃんの弁当食うてきたわ。 …でも、一杯お茶もらってくわ。昨日の栗きんとんある?」
「ありますよ、ほんならきんとん2つでええですか?」
「りさ子ちゃん食うやろ?」
『え、あ、うん。食べる。いただきます』
「じゃあ2つ頼むわ」
「はーい。 ほんならりさ子ちゃん、席行きや」
治くんはそう言って、それからぼそっと私にだけ聞こえる声で
「北さん、あーよかった。おったわ。いう顔しとったな」
って言った。
『え?』
「なんでもないわ。ちょっと待っとってなー」
『あ、うん。お水持っていってもいい?』
「おー、おおきに。ほんならついでにそこの……」
オーダーをひと段落終えている治くんは、お惣菜の仕込みをしていて。
肩をくいくいってやって、おしぼり頼む、的な素振りを見せる。
おしぼりとお水を持って、信介さんの元へ向かう。
『信介さんどうぞ』
「おー、おおきに。どうやった?」
『本当に見学させてもらってただけだったけど、楽しかった。
それにね、糠床に手を入れたら本当にしっとりした気がする』
「…ほーか」
『…?』
「………あかん、ホッとしてもーて」
信介さんは深く椅子にもたれかかって、天井を見上げるように顔を向け目を瞑る。
それから一度、深い息を吐いた。
「誤解せんとってな、りさ子ちゃんに失礼な意味は一つも含まんからな」
『……?』
「いや、ここで会われへんかったらどうしよ、思った」
『あ…、そっか… そうだよね』
連絡先も交換してないし、出会ったその日に身体の関係を持って、
でも一緒に夜は明かさず、翌日のお昼にまた会おうなんて。
あまり、ないことな気はする、確かに。