第36章 聞こえない音 お相手:宇髄天元
迷いは あったんだ
あったはずなのに
そのどうしようもない感情をそこに乗せると
途端に世界に色が戻った
ぶつけたはずの迷いが力強い旋律に変わる
そうか… これも私なのだ
その感情の在る所にばかり
気を取られていたけど
この迷いも 全て 私なんだ
情動にこの音は似ている
勢いと力強さのある音だ…
ふふふと口から笑い声が零れて来た
面白いとすら思ってしまった
自分が日々 病に侵されて
弱って行くのを知りながらに
感じて自覚しながらに
そんな自分からこんな
力強い音が出るなんて…不思議で仕方ない
恋って言う物はもっと
儚くて 淡い… 雪の様な物なのかと
ずっとそう思って居たけど
「そんなんじゃ…、無かったのね」
私の心に宿った感情は
そんな生易しい穏やかな物ではなくて
この音と旋律の在る様に
その迷いすらも激しく心を揺さぶるのだから
上の階から聞こえるピアノの音に
みくりの父は耳を傾けていた
「さっきまで、抜け殻の様な
演奏をしていたと思ったら、
今日のみくりは随分と情熱的で
それでいて、大人ぽい演奏をするね…」
手にしていたカップとソーサーを
机の上に置くと
「美咲、紅茶のお代わりを貰えるかな?」
「ご主人様…、お気付きであられますか。
お嬢様は…その」
「美咲は、みくりの恋の相手を
知っている様な口ぶりだね、
終わりしか見えない恋を始めては
いけないと、言うほど、僕とて野暮じゃない。
相手の男性が、みくりの身体と
病気の事情を理解してくれているならね」
美咲が空になったカップに
新しい紅茶を注いで戻した
「どうぞ、ご主人様」
「みくりが僅かな残された
自分の人生を、みくりの
自由に使うのは、当然の権利だと
思って居るけど…。その現実は
情熱に勝るのか…大人には理解には
苦しむけどもね…」
「きっとこの、音は…みくり
お嬢様の苦悩にあります」
魂の叫びの様なその音を聞いていると
胸の奥が張り裂けそうになる
「ははははっ、苦悩か。
美咲にはそう聞こえるのかい?でも
僕の耳にはそうは聞こえないなぁ。
こんなに、力強い苦悩はないよ…。
美咲、相手を知っているんだろう?」
「いつ死ぬか分からぬ身…であるのは、
あちらとて同じ事にあるかと」