第36章 聞こえない音 お相手:宇髄天元
お嬢様の御病気が…発病してすぐの頃は
まだ…身体の特定の場所に
軽い痺れがあるだけだった
普通に当たり前に出来ていた事が
少しずつ そう少しずつ…失われて行く
去年ぐらいから……その進行は
急激に進み 今はご自身のお部屋から
ほとんど出られる事もない
こうして……浴室のある 一階まで
今日は調子が良いからと仰っておられたが
その移動にも 時間を要するし
身体を支える必要がある…
自室の中の数メートルの距離ならまだ
支え無しでも 移動出来ているが…
美咲は浴室の用意を整えながら
バスタブに勢い良くお湯を張る
その音にかき消されつつも
ここまで みくりお嬢様の奏でている
ピアノの音が聞こえていた
お嬢様は… 天才少女と呼ばれていた
8歳から有名なコンクールに出場し
それだけでも素晴らしい事なのに
美咲が居間の方へ目を向けると
居間の暖炉の上には
お嬢様のコンクールでの
優秀な成績を称える
楯が幾つも並んでいた
誰しもが将来……有名なピアニストに
なるのだとその才能を褒め称えた
約束されていたのだ
輝かしい 未来が… みくりお嬢様には
この国の垣根を越えて
外の国へと 羽ばたけるその才能は
断たれてしまっていた
「みくりお嬢様…おいたわしい…」
外から
子供たちが草野球をしている声が
みくりの耳に届いた
ピアノを弾く手を止めて
窓の外を見ると
川の土手の所の広場で
草野球に興じる子供達の姿が見えた
昔は…普通だった この身体も
他の子と何ら変わらなかった
かけっこをしたり
柿の木に登ったりも出来ていた
今はこうして…
自分の部屋に籠り
ピアノを弾くだけの毎日…
今までは……感じなかった 痺れが
ついに… 自分の腕に…感じる様になっていた
私は……いつまで
ピアノを弾くことが… 出来るのだろうか?
他の何が 出来なくなるよりも
何よりも それが……恐ろしいと
辛いと…… そう思わずに居られない
すっとみくりがピアノに手を伸ばし
その鍵盤を指先で撫でて行く
こうして 鍵盤を押して沈める
このずっと 何年も物心着いた頃から
ずっと 毎日欠かさずに弾いてた
この 慣れ親しんだピアノの……
鍵盤が……重い