第1章 0.タナトスの手
――あはっ。傷だらけじゃん。痛そー。
あたかも私のことを知っているかの様に、彼は軽口を叩いた。
痛いよ。今にも倒れそうなくらいにはね。
そう、ぼんやりとする意識の中で声に返事をする。
こちとら満身創痍で立っているのもやっとな虫の息の状態なのに、彼からは心配している様子は欠片も感じられなかった。
代わりに彼は唇の端を歪めた揶揄いの厭な笑みを、見るもの全てを蕩けさせる蠱惑的な微笑みに変えると私に手を差し伸べた。
――優しくぎゅーってしてあげるから、こっちへおいでよ。
甘い甘い、蜂蜜のような声で唆す。
声に誘われた私は、この時初めて彼の顔をしっかりと見た。
端正な顔の中でも一際存在感を放つ左右で色彩の違う瞳が、危険な香りを漂わせながら私を見つめている。
初めは、下がった目尻がこんなにも優しく見えない人なんているんだ、と思った。
彼と目を合わすと胸が締めつけられているように苦しくなる。
恋にも似た感情で心がいっぱいになる。
どうしてだろう。私は彼に会いたいと願っていたような気がする。
根拠は無い。彼が誰かも分からない。
それでも、彼を見つめていると私の中の別の私が、彼の胸に飛び込みたいと言っているように感じた。
鏡の中から私に向けて差し伸べられる手。
あちらへ行ってはいけない。辺りの闇と立ち込める禍々しい空気を危険と判断した理性が本能に対して警鐘を鳴らす。
――どうしたのぉ?ほら、おいでよ?
あちらへ行ってはいけない気がする。それは分かっていた。分かっていたが、理性では抗えない何かが私を支配する。
ずっと耳元で鳴り止まない一定間隔の無機質な電子音と同調するかのように、鼓動がどくん、どくんと大きく跳ねる。
そろそろと鏡へ手を伸ばすと、指先が鏡面に吸い込まれた。
煩い電子音と鼓動の制止を無視して、私は恐る恐る彼の手に触れた。
――後悔は、ないな?
鏡に映る男のものとは違う声が頭の中で響く。
まるでもう後戻りは出来ないとでも言われている気分になったが、どうしても私の理性は彼の誘惑に勝てなかった。
私の心が、彼の元へ行きたいと望んでいる。
返事をする代わりに彼の手をとると、一気に鏡の中へ引き込まれた。
私は自分の心の声に従った。後悔はない。
彼の手をとったことを肯定するかのように、煩かった電子音と心臓の音はぴたりと止んだ。