第1章 0.タナトスの手
重たい瞼を持ち上げると、そこは光の届かない海の中だった。
深海というのは、暗くて冷たい場所。
そうやって、昔見た何かの本に書いてあった気がする。
唇から小さく泡が零れた。
私はどうしてこんなところにいるんだろう。
辺り一面濃藍に包まれていて、長い髪が広がって踊るのも、水が頬を撫でる感覚も完全に海の中のそれ。
しかし海と呼ぶには海洋生物は1匹たりとも見当たらないし、なにより肺での呼吸が出来ている。
海や水の概念が捻れてしまいそうな世界へ、私はゆっくりと沈んでゆく。
水中でひらひらと揺蕩う布切れを視界の端で捉えた。
まだらに赤く染るそれは、まるで鉢の中で優雅に泳ぐ金魚の尾びれのようで綺麗だと思った。
薄靄のかかる意識の中でもその赤は鮮烈で目が離せない。
同時に口腔内に広がる鉄臭さで私はそれが何であるかを理解した。
だが何故それが巻かれているのか、その理由までは思い出すことが出来ない。
全身が痛い。息が苦しい。手足が重い。動かない。
身体そのものが鉛にでもなったのではないかと錯覚してしまう。
海の底へ沈むように、身体も意識も記憶も眠るように闇へ落ちてゆく。
意識を取り戻した時から、機械的で無機質な音が一定の間隔で止まることなく耳に響いている。
どうにもうるさくて鬱陶しい。
しかしそれも眠ってしまえば聞こえなくなるだろうと、私は目を閉じた。
――ねぇ、――ちゃん。こっちへおいで。
あと僅かで私の全てが沈みきりそうだったところへ、誰かが声をかけた。
目を開ける。誰かが私を呼んでいる。
どれだけ記憶を手繰り寄せても全く耳に馴染みの無い声だが、明確に私に向けてかけられたものだと本能が認識した。
――こっちだよ、こっち。
手招きでもしているかのような声へ吸い寄せられるように向かうと、そこには大きな鏡のような何かがあった。
血の滲んだ包帯が巻かれた、傷と痣だらけの身体を引きずりながらそれに近づく。
それに映るものと視線がぶつかった時、私は思わずひゅっと息をのみ瞠目してしまった。
鏡面には私の姿が映らない代わりに、黒と紫の生地に金糸の刺繍が妖艶なローブを纏ったターコイズブルーの髪の男が映っていたのだ。
いや、映っていたというよりも、向こう側にいるように思える。
彼は私の姿を見るなり、にたぁ、と揶揄うように唇を歪めた。