第9章 7-1. 咬魚の誘惑 前編
「はい。流石にお疲れだったのでしょう。とても気持ちよさそうに寝ていたので、少し悪戯をしようかと思っていたところです」
「なんです。意地悪ですね……。起こしてくださってもよかったのに……」
「なかなか起きない貴女が悪いんですよ」
ふふっ、と笑いながらジェイドは毒づく。
シェラが言う通り少し意地悪だとは思ったが、フロイドではなく自分に、普段見せないムッとした表情を見せてくれるのは新鮮で良い。
(もっと揶揄ったら、貴女はどんな顔をするのでしょうね)
今更、もっとたくさん、色々な表情を見てみたいと思った。
こんなこと、フロイドはもうとっくに思っただろう。
なぜもっと早くそう思わなかったのだろう。
だから〝今更〟なのだ。
ベッドから降りようとしたシェラの足元に靴を並べる。
「優しいと思ったら急に意地悪で、でもお優しいんですね」
『ありがとうございます』と言いながら、シェラはジェイドが用意した靴を履いた。
見上げるシェラへ、ジェイドは少し身を屈めて微笑む。
「僕はいつでも優しいでしょう。さ、行きましょう。――……」
〝フロイドが待っています〟
いつも何気なく言っているのに、何故か今日は言えなかった。
ジェイドの妙な様子には露も気づかず、シェラは荷物を持ってゲストルームを出た。
全く高さの合わない肩を並べながら、ジェイドとシェラはフロイドが待つモストロ・ラウンジのホールへ向かう。
話題は授業のこと、課題のこと、アルバイト初日の感想、それと。
「フロイド先輩の作る賄い、本当に美味しかったですね」
「ええ。美味しかったですね。今日の調子は絶好調だったようです」
「不調だとどんな料理が出てくるんですか?」
「……海の藻屑とでも言っておきましょう」
「『料理の気分じゃねーんだけど』とか言ってそうですね」
「ご名答。よくわかってらっしゃいますね」
話を合わせながら、ジェイドはシェラの上で笑顔を作る。
(貴女の口から出るのは、フロイドの話ばかりだ……)
シェラの口からフロイドの名前が出る度に、今まで感じたことのない得体の知れない寂しさのようなものが込み上げた。
ようやく、胸に渦巻くこの感情の正体が分かってきた気がする。
しかしそれを認めたくなかった。
海でも陸でも、雄の――男の嫉妬は醜いものだから。