第9章 7-1. 咬魚の誘惑 前編
オリーブとゴールドの瞳に、ヴィランの色がさす。
「僕は雄の肉食魚ですから」
あまりにも無防備に眠るものだから、少し悪戯をしてやろうと考えた。
既に鼻先がぶつかりそうな距離まで近づけた顔をさらに寄せる。
唇同士が重なりそうになったところで、眠っているシェラの表情がふにゃりと溶けた。
思わずジェイドは顔を離す。驚いて目を見開く。
「!」
これほどまでに穏やかで柔らかな表情は初めて見た。
いや、ジェイドに限らず、誰ひとり見たことがないであろう表情を、シェラはしていた。そう、きっとフロイドですら見たことがないだろう。
おおよそ誰も見たことがない緩んだ表情に、ジェイドは優越感と同じくらい幸福感を抱いた。
悪戯をしてやろうと思っていたジェイドだったが、そんな気持ちはどこかへ消え去った。
「いったいどんな幸せな夢を見ているのでしょうね」
かわりにジェイドはシェラの髪ではなく頬を、そっと指でなぞる。
ジェイドが触れた頬が、ぴくりと動いた。
伏せられた瞼から、ゆっくりとあどけない黒真珠の瞳が覗く。
「……っ、フロ……」
放心したように、目覚めたシェラは呟いた。
開口一番に出た名前は、兄弟の名前。
胸に小さなささくれのような痛みを感じた。
ジェイドの瞳が、さざなみのように揺れる。
しかしそれはほんの一瞬だけで、次の瞬間にはいつも通りの柔和な笑顔があった。
「……いいえ。僕はジェイドです」
寝ぼけまなこで兄弟の名を言いかけたシェラへ、ジェイドはにっこりと笑って違うと言う。
それで、未だに夢見心地だったシェラは飛び起きた。
「っ……!すみません……!」
寝ていたせいで手を煩わせたからか、ジェイドをフロイドと間違えたからか、シェラは勢いよく謝った。
顔には〝最悪だ〟と書いてある。
(最悪なのは僕の方ですよ)
と思うが、ジェイドはシェラに腹を立てたわけではない。
「いえ、僕とフロイドは似てますからね」
本心とは全く逆のことをジェイドは澄ました笑顔で平然と言った。
言いながら、ふつふつと湧き上がるこの感情の正体を考える。
怒りとはまた違う、胸に渦巻く形容しがたいこの感情。
「あの、私寝てました?」
そんなジェイドの心中を知る由もないシェラは呑気に訊く。