第9章 7-1. 咬魚の誘惑 前編
「はい。モストロ・ラウンジで1番大切なのは品性です。普段から落ち着きのある貴女でしたら、無理に愛想を良くしようと普段以上の笑顔を心掛けるより、少し口角を上げるくらいでより自然に上品な表情を作ることが出来るかと」
そう言ってジェイドはゆっくりと口角を上げた。
いいお手本だ。確かにジェイドの言う通り、にっこりとした接客スマイルを貼り付けるよりも、より自然に普段の無愛想さをカバー出来そうだ。
懸念点が解消されて、シェラは安堵の表情を見せる。
「……そうですか。ありがとうございます」
「そう。その表情です」
僅かにシェラが口角を上げたのを見逃さなかったジェイドは、シェラの顔を見つめながら、すっと目を細めて笑う。
「開店準備も終わりましたし、お客様を待ちましょう」
「はい」
開店時間を迎え、店内にジャズ調のBGMが流れ始める。
ちらりと音源に目をやると、貝殻を模した蓄音機から音が出ていてシェラは舌を巻いた。
本物の蓄音機は初めて見た。
こういう細かいところまで〝紳士の社交場〟というコンセプトが徹底されている。
来客があるまでシェラはジェイドと一緒にカウンターの中に入り、棚に並んでいる茶葉とメニュー表を照らし合わせ、何がどの銘柄の茶葉なのかを確認して過ごした。
時折暇を持て余したフロイドが厨房からやってきて、シェラにちょっかいをかけては厨房に戻っていく。
そうして客が来るのを待っていると、来客を知らせるベルが響いた。
「おや、さっそくお客様のご来店です。シェラさん、お出迎えをお願いします」
「はい。……え?」
ジェイドに促されてシェラが来店客を出迎えに行くと、場に似つかわしくない大きな声がシェラを呼んだ。
「シェラー!喜べ!オマエがこき使われてないか、オレ様が様子を見に来てやったんだゾ!!」
「グリム……?」
声の主はグリムだった。あまりの声の大きさに、給仕シフトの他の寮生達が眉を顰めている。
「来てくれてありがとう」
シェラはしゃがんでグリムの顎を撫で、お礼を言いつつ唇の前で人差し指を立てると、声のボリュームを下げるよう頼む。
あれだけシェラがモストロ・ラウンジでアルバイトをするのを反対していたのに、いざ始めると様子を見に来てくれるなんて微笑ましい。