第9章 7-1. 咬魚の誘惑 前編
寮生達にとって、寮長のアズールやその補佐を務めるリーチ兄弟は頭の上がらない存在だった。
人によっては恐怖にも似た感情を抱いていたり、憧憬の対象だったりする。
そんな彼らに対して、1年生という1番下の立場でありながら臆すること無く対等に、しかも淡々とやりとりをしているシェラ。
ある人は『一体何者なんだ』と、またある人は『怖いもの知らずにも程がある』と、1年生の中でも一際小柄で強そうには全く見えないシェラに対して思った。
「もうすぐ開店時間です。それでは皆さん、本日もよろしくお願いします」
パンパンと手を打ち鳴らし、アズールは支配人らしく言った。
アズールの言葉を皮切りに、集まっていた寮生達は各々持ち場につく。
アズールは他の仕事があるのか、VIPルームへ戻っていった。
「ではシェラさん、開店準備から教えますね」
「はい。お願いします」
「頑張ってね、小エビちゃん」
「ありがとうございます」
フロイドはシェラを励ますようにして肩を、ぽん、と叩くと、厨房へ向かった。
ジェイドについてまわり、シェラは開店準備を進めていく。
準備といっても実際は数人で分担するから、ひとりあたりのやることは少ない。
まずは基本中の基本であるティーカップやカトラリーの場所、テーブル番号の確認を済ませた。
それが終わると、来店客の案内の仕方や伝票のつけ方、提供時の作法をジェイドに教えてもらった。
必要なことはメモをとり、要点を押さえ理解することに時間はかからなかった。
が、ひとつ、シェラにとって大きな問題があった。
「ジェイド先輩……私、笑顔でいることが1番難しいかもしれません……」
困り果てた表情でシェラはジェイドを見上げる。
接客業で1番必要な愛想の良さを、シェラは持ち合わせていない。
愛想良くニコニコしていようと意識すると、途端に頬を引き攣らせた違和感しかない歪な笑顔になってしまう。
「おや。それは困りましたね。……、そうですね……」
ジェイドはシェラの不安を否定することなく、解決方法を考え始める。
シェラは不甲斐ない気持ちになる。自分の表情筋の硬さを恨む。
「ここでの貴女は華やかなお顔をされていますので、にっこりとした笑顔でなくても、少し口角を上げるくらいでいいのでは?」
「そう、ですか?」