第8章 6-2. 咬魚の束縛 後編
心を落ち着かせてくれる、あのマリンシトラスのいい香り――フロイドの匂いが、シェラを包み込む。
シェラは慰めの言葉は望んでいない。
ただ、静かに甘えさせてくれる場所を求めていただけだった。
だからフロイドは、『泣かないで』とも、『元気だして』とも言わずに、ただ『今日だったらこうする』とだけ言って背中ではなくて胸を、泣く場所として貸してくれた。
シェラが自分の弱っている姿をさらけ出す時には、いつもフロイドがいる。
適度な距離を保って、甘えさせてくれる。
とくん、とくん、と、フロイドの胸の音が聞こえる。
薄いシャツとベスト越しに感じるフロイドの体温と、心臓の音がシェラの心を落ち着かせる。
抱き寄せられた胸は広く、厚みがあって頼もしかった。
フロイドの胸の中で、シェラは思う。
エースでも、デュースでも、リドルでも、ジェイドでもない、フロイドだから甘えられる。
フロイドだから、甘えたいんだと、気づいた。
フロイドはシェラに遠慮をしない。
だからこそシェラも、遠慮なく甘えられる。
マリンシトラスを胸いっぱいに吸い込んで、シェラは顔を上げることなくフロイドへ、あるお願いを口にした。
「フロイド先輩……」
「なぁに?」
「私の名前を、呼んでいただけませんか」
故郷には、言霊ということばがある。
ことばには、魂が宿っているという。
改めて思う。
このままずっと〝シェラ〟でいたい、と。
故郷で生きる自分を否定したいからではなく、どうしても離れたくないと思ってしまったから。
「小エビちゃん?」
「そっちじゃなくて、」
シェラが言い終わらないうちに、甘く優しい声がシェラの名前を呼んだ。
「シェラ」
シェラは涙に濡れた顔を上げた。
フロイドはそんなシェラの顔を愛おしげに見つめると、んあ、と大きく口を開けて、そのまま微笑んだ。
「シェラ」
もう一度、フロイドがシェラの名を呼ぶと、もう片方の手がシェラの腰に添えられ、そのまま優しくぎゅっと抱きしめられた。
そろそろと、シェラの手がフロイドの背中に伸びる。
迷っていた。このまま、そうしていいのか。
このままそうすると、もう見て見ぬふりが出来なくなる。