第8章 6-2. 咬魚の束縛 後編
「これは、私のひとりごとです」
シェラの唇は、静かに淡々と言葉を紡ぎ始めた。
「少しずつ、私自身の記憶を思い出してきてるんですけど、あまり優しくない記憶でした」
シェラの黒真珠の瞳が揺れる。
話しながら、シェラは思う。これは、現実逃避だと。
元の世界で暮らす自分に明るい未来を見い出せないから、この世界に残りたいだなんて都合が良すぎる。
しかしシェラにとっては、自分の明るい未来どうこうよりも、この世界で出会った彼らとの別離のほうがつらかった。
目を閉じて、瞼の裏に浮かぶのは、エースやデュース、グリムといった友達。リドルやカリムを筆頭に、兄のように接してくれるハーツラビュルやスカラビアの先輩。シェラのことを必要としてくれて、歓迎してくれるオクタヴィネルの彼ら。
そして1番最後に、1番鮮やかに浮かんだのは、『小エビちゃん』とシェラを呼ぶフロイドの笑顔。
人の温かさを知ってしまった。
離れたくない人がたくさん出来てしまった。
このまま、この世界に残りたいと思ってしまうほど。
きっと、シェラの意思に関係なく、別離の瞬間は訪れる。
今はその瞬間が、なによりも怖い。
「本当の私は、言いたいことも言えずに我慢して、他人に心を開かない寂しい人でした」
記憶の中の、瞳に光のない自分を思い出す。
感情を必死に押し殺して、凍りついたような真顔の仮面を貼りつけている自分。
「記憶を取り戻し始めて気づいたんですけど、どうやら私の本当の名前は〝シェラ〟ではないみたいです」
恐らく、自分の本当の名前を思い出した瞬間に、記憶のパズルが完成する。
記憶の中の自分は、〝新しい自分に生まれ変わりたい〟と願った。
この世界で生きる〝シェラ〟である自分は、無愛想であることは変わらなくても、笑うことが出来ている。感情を表現することが出来ている。
願いが叶ってシェラはここにいる。
だから、元の世界の寂しい自分には、戻りたくなかった。
「これ以上、思い出したくありません。……元の世界の自分に、戻りたくない……」
絞り出すように発せられた声は、頼りなく震えていた。
このまま、〝シェラ〟であり続けたい。
〝シェラ〟ではない自分を、どうしても肯定することが出来ない。
「……ひとりごとは終わりです」