第7章 6-1. 咬魚の束縛 前編
実際、難癖つけてくるような客はそういないだろうし、運悪くあたってしまっても追い返すくらいなら問題無さそうだ。
だが念の為、あの指輪はつけたままの方がいいと思った。
シェラ本人は全く自覚が無いが、シェラもそこそこな脳筋である。
「シェラさんは近接格闘術がとてもお強いと聞いておりますが、貴女も女性ですから決して無理はなさらないように」
「お気遣いありがとうございます」
そんなシェラの脳筋思考を読んだのか、ジェイドが苦笑しながら釘を刺してきた。
シェラとて無用な争いはしたくない。
そこそこ脳筋思想ではあるが、喧嘩っ早いわけではない。
弁が立つ方でもないが、有事の際には出来る限り平和的に解決するつもりだ。
「おや、シェラさんは腕が立つのですね。僕と腕相撲で勝負してみますか?」
「腕をへし折られたくないのでご遠慮させていただきます」
フロイドから聞いた話を思い出し、シェラは苦い表情で拒否すると、アズールは残念そうに肩を竦めた。
アズールは細身の体躯ではあるが、ああ見えて剛腕らしい。
なんでも、タコの足は全て筋肉だとか。
そんなアズールとの力勝負は、あの指輪があったところで勝算は無い。
雑談もそこそこに、アズールは表情を改める。
「すべてご納得頂けたようであれば、契約書にサインを」
シェラは魚の骨型のペンを手に取ると、〝Signature〟と記された署名欄と対峙する。
サインをすべくペン先を契約書に押しつけると、シェラの脳裏にあの優しくない記憶が蘇ってきた。
聞き取れなかった、祖父が呼んだシェラの真名。
(私の、名前は――……)
忌々しげに眉を寄せ奥歯を噛むと、その記憶を打ち消すように、勢いよく〝Shela・Linsey〟とサインをした。
「どうかされましたか?」
一瞬だけシェラがそんな表情をしたことを見逃さなかったアズールは、訝しげにシェラに問う。
「いえ、なにも。これからよろしくお願いします」
取り繕いを悟らせないように、いつものポーカーフェイスに戻したシェラはアズールにサイン済みの契約書を差し出した。
そして淹れてくれたレモンティーを冷めないうちに全て飲み干した。
なんでもないと言われたアズールは、それ以上深く追及せずに署名を確認する。