第6章 5. 人魚の純情
アルバイトさえも許されない、厳格な管理下におかれた生活。
眼力鋭い祖父の言いなりで、なにも出来ない自分。
自身が強くなることでしか許されない、条件付きの自由。
そして、本当の自分の名前は〝シェラ〟では無いことを薄々感じ始めていた。
ならば、今のシェラである自分は一体誰なのだろう。
元の世界で過ごす本当の自分がシェラで無いのなら、元の世界に戻った時に――本当の自分に戻った時に、この世界の記憶はなくなってしまうのではないか。
そうしてみんなのことを忘れて、みんなに忘れられる。
まるで、最初から存在しなかったように。
弾けて消えて、溶けてゆく。何も残らない。
まるで泡沫だ。
まるで夢だ。
フロイドがそう言った時に、シェラは真っ向から否定した。
そんなにか弱い存在だとは思いたくない。
しかしそれは、そう思いたくないだけで、実はそうなのかもしれない。
急にそんな不安に駆られて、フロイドを見つめるシェラの瞳に絶望の色がさす。
今、どんな顔をしているだろう。
きっと、不安に打ちのめされそうになった、今にも泣き出しそうな顔をしている気がする。
胸が苦しい。無意識に呼吸が浅くなる。
フロイドのシャツの袖口を、シェラはそっとつまんだ。
シェラに袖を引っ張られたことに気づいたフロイドは、穏やかな笑顔を浮かべながらシェラの頭に手を置いた。
「そんな不安な顔をしなくても大丈夫だよぉ。オレもジェイドもアズールも、しっかり小エビちゃんのフォローするから安心して?」
まるで小さな子をあやすように、『よしよーし』と言いながらフロイドの大きな手がシェラの頭を撫でた。
フロイドの笑顔と頭を撫でる手の大きさと温かさに、胸の苦しさがすっと引いていった。
シェラの黒真珠の瞳に光が戻ってゆく。
フロイドはきっと、シェラがモストロ・ラウンジでのアルバイトに対して不安に感じているからこんな顔をしているのだろうと思っている。
しかしシェラにとって、そんなフロイドの勘違いは取るに足らないことだった。
まるで救いの手を求めるように、どうしてフロイドに縋ってしまったのかは分からない。
今はただ、そうしてフロイドが心を温めてくれるだけで、シェラは自分の存在を肯定することが出来た。