第6章 5. 人魚の純情
シェラの唇の柔らかさと吐息の熱さが忘れられない。誰にも渡したくない。
口元を三日月に歪めた煽るような笑顔と、視線で射殺さんと睨む力強い黒真珠の瞳がたまらない。あらゆる手を尽くして屈服させたくなる。
こんなに激しい感情は、初めてだった。
フロイドは、ゆっくりとシェラに顔を近づける。
あと少しで、唇同士が重なりそうだったところで、フロイドがぴたりと止まった。
ジェイドの『シェラさんには優しくしましょうね。さもないとそのうち嫌われますよ』という言葉が脳裏をよぎった。
思い直したようにフロイドは上体を起こす。
本来であればキスというのは、恋人同士が、番同士がするもの。
今もしここでキスをしてシェラが目を覚ましたら、後々の関係に亀裂が入る可能性を考えた。
(今ここでちゅーして、嫌われんのは嫌)
他人にどう思われようが、そんなものはどうでもいい。興味無い。そう思っていた。
そう思っていたはずだったのに、嫌われたくないだなんて。
そんな風に誰かに思うのは初めてだった。
もし嫌われてしまったら、もうシェラに構ってもらえなくなる。
もし嫌われてしまったら、あの飛行術の日に見せてくれた、たおやかな花が綻ぶような笑顔を向けてもらえなくなる。
悪党の笑みも良いが、フロイドがもう一度見たいと思うのは、ポーカーフェイスの奥に隠れる真珠のように無垢で柔らかな笑みの方だった。
フロイドは、愛しいものに触れるような手つきでシェラの頬を優しく撫でる。
無表情なシェラが笑う瞬間は、流氷が解けた後の春の訪れを感じる海のようだった。
頬がふわっと柔らかく溶け、唇がほどけ、茫洋とした黒真珠の瞳に暖かな光が宿る瞬間。
シェラの笑顔を思い出しながら、フロイドはシェラの額に、ふわりと触れるような優しいキスを落とした。
満足げに微笑みながら上体を起こすと、フロイドは手早く寝間着に着替えてベッドに入る。
シェラが寒い思いをしないように掛け布団をしっかりとかけた。
(これくらいなら、許してくれるよね)
眠るシェラをぎゅっと抱きしめるように、フロイドはシェラの身体に腕をまわして目を閉じる。
シェラの体温のぬくもりを感じながら、フロイドは大昔に陸に上がった人魚姫の気持ちに思いを馳せた。