第20章 遺書
『…どうか…生きて…っ…』
それが、最後だった。
彼女の声が聞こえなくなって、ロシナンテはあたしを抱えて暗闇の中を走った。
走る音も、息遣いも何も聞こえない。
知らない人に抱えられているというのに、不思議に思うくらいで、決して怖いとは思わなかったのを覚えている。
心地よささえ感じながら、あたしは腕の中でじっとしていた。ロシナンテは薄暗いパンゲア城を抜け出して、夜の森の中を走る。
急に、音が戻ってきた。
「女がいないぞえ!!!どこに行った!!!」
どこからか聞こえる声。
ザワザワと喧騒が大きくなる。
「もうバレたのか…!」
低くうめく声。
ようやく暗い森を抜け、レッドラインの端にたどり着いた時には、そのざわめきはますます大きくなっていて。
そして、あたしは確かに、それを見たの。
ずっとずっと、ずっと遠くにいるその影を。
ロシナンテも同じようにそれを見つけて。
レッドラインの端、ぎりぎりのところで佇む一つの影。周りを取り囲む赤いゆらめきが、その存在を際立たせる。
影を追い詰めるようにさらに多くの影が近寄っていく。
──────ボカンッ。
鳴った気がした。
実際音は聞こえなかったのだけど。
天上の地から投げ出され、黒い煙を上げながらゆっくりと落ちていく人影。その様子を、ロシナンテが呆然と見ていた。
「何がまかせろ…だ」
掠れた声で呟きが聞こえて、冷たい雫が降ってきた。
頬に当たるその雫が冷たくて。
あたしの心も同じくらい冷たくて。
それでもあたしは涙を流すこともできなくて。
あたしを抱き締める腕が小さく震えてることに気づく。呆れるくらい大きな人なのに、今にも頽れてしまうんじゃないかと思った。
それほどに、触れた体から伝わってくる温度も、呼吸も、心臓の音も、全部が悲痛な叫びをあげていて。
あたしは、急にこの人に力を貸してあげたくなった。
──一緒にここから出てみよう。
寒くて冷たいこの場所から。
外の世界に何があるのか分からないけど、きっとこの人がいるなら大丈夫。向かう先に、安心できる未来が待っているような気がした。
──ここを離れたら、この人はまた笑ってくれるだろうか。
だからその日初めて、あたしは、人のために風を呼んだの。