第20章 遺書
≪○年△月×日≫
彼女に名前はありませんでした。
彼女に与えられていたのは、No.104(イチマルヨン)という識別番号のみ。それ以外に呼び名らしいものはなかったのです。
私は彼女のことを"お嬢様"と呼ぶことにしました。世話係なのですから、それで違和感はないでしょう。
名前もない彼女には、使用人の他に、物置よりもさらに狭い地下室が一つ与えられました。
毎食用意されるのは、死なない程度の最低限の食事。使用人のそれにも劣るほどのものでした。あれだけの護衛を連れて入城したとは思えない待遇です。
それでも、彼女は泣き言一つ言いません。
そう。お嬢様は、3歳やそこらの幼子とは思えないほど、手のかからない子どもなのです。泣きもせず、怒りもせず、駄々もこねません。…そして、笑うことも、喜ぶこともありませんでした。
不自然なほど静かで、私はそれがとても不安になります。ですが、彼女の目を見ているとなぜか彼女がわざとそうしているようにも見えるのです。
幼女にそこまでの考えがあるとは思えませんが、彼女の聡明な眼差しはたまに、大人ですらハッとさせるものがあります。
天竜人たちは、ほとんどお嬢様に会うことはありませんでしたが、たまに、ほんのごくたまに、彼女を呼び出す時がありました。そういう時は、必ず警備の一人が地下室まで呼びに来ることになっているのですが…。
ある日、私がお嬢様とともに地下室にこもっていた時、お嬢様が不自然に扉の方をじっと見つめていることに気付きました。不思議に思っていると突然その扉が開き、警備の者が私に向かって、お嬢様を連れてくるように、と言ったのです。
私には、彼が部屋に入ってくる随分前から、彼女がそれを知っていたように見えました。
彼女はその後もやはり、誰かが入ってくる度に扉の方をじっと見つめ、来訪者を待つような様子を見せます。
なぜ分かるのかとても不思議ですが、彼女に聞いたところで答えは返ってこないでしょう。
彼女が反応を示すのはそれぐらいで、それ以外のことは相変わらず無関心のままなので。話すことも、自分で歩くこともしないのです。
もう少し、お嬢様のそばにいれば、私はいつか彼女の笑顔を見ることができるのでしょうか。