第20章 遺書
≪○年☆月□日≫
日が経ってしまいました。
お嬢様と一緒にいると日常がとても忙しくてなりません。なかなか一人の時間ができなくなりました。ええもちろん、嬉しいことに、です。
ええと、どこまで書いたのでしたっけ。
そうそう、旦那様ご一家がマリージョアを立たれた時のことですね。
今から19年前のある日、旦那様と奥様はある重大な決断をなさいました。── 世界貴族の類稀なる地位を返上し、聖地マリージョアを去るという決断を。
あの優しいお方が、ここでの生活を居心地悪く感じていらっしゃったことを私は知っていました。ですから、聞いた時はあまり驚きはありませんでした。あのような決断なさるのはどこかで予想がついていたのかもしれません。
そして、当時の私は何の疑いもなく、連れて行ってもらえるものと思っていたのです。居を移すのであれば、私と母も一緒だろうと。
しかし、あのお方は仰いました。
自分達は下界に降り、何も持たずに、一般市民に紛れて生きるつもりだ、これからは使用人を雇うだけの地位も財力も持ち合わせないのだ、と。
ご本人から改めて明確な意思を聞いたわけではありません。私と母が精一杯説得したら、おそらく連れて行ってくださったと思うのです。しかし、それを聞いて、母は私と共にここに残ることを選択しました。
母がなぜそうしたのか、当時6歳だった私は心底疑問でしたが、今なら分かります。母は、彼の方の理想を邪魔したくなかったのです。
旦那様は、ただただ、理想を追い求めていらっしゃいました。彼の叶えたい夢は、使用人や奴隷に囲まれて生きる生活ではなかった…。
ただ、家族だけでひっそりと、この世の隅っこで生きること、それだけを望まれたのです。母はその意思を尊重し、他の大勢の使用人とともにここに残りました。
旦那様は、ひたすらに、真っ直ぐ、理想を追いかけておられました。
自分達がマリージョアを去り、天竜人という天上の地位を捨てれば、普通の人のように生きることができると、心から信じていらっしゃいました。
とても清く、甘く、そして残酷な夢です。
しかし私も母も、旦那様の夢が叶うことを心の底から強く強く、願っておりました。