【鬼滅の刃】杏の木 ♦ 煉獄 / 長編 / R18 ♦
第3章 鬼の血の子と稀血の柱 ※
「でも………ありがとう。不死川さま。風柱さまの方が良かったかな?」
くすっと笑うと、最後に隠のマスクを付け、まだ布団の上に胡座をかいて座る実弥に背を向ける。
「…実弥。名前だ」
吐き捨てるようにぼそっと言ったその名前を、蛍はしっかりと聞き止めた。そういえば、お互いの名前も知らないままだった事を、今更ながらに思い出す。
「…私は蛍。でもただの隠だから、覚えなくても結構ですよ」
それだけ言うと、バイバイ、と軽く手を振り、そのまま屋敷を後にする。
「結構ですってかぁ」
自分の気持ちも伝えられずに多くの仲間を失うのが茶飯事だ。親も、兄弟も、大切な仲間も。
特に兄弟子の匡近や花柱の胡蝶は、いつも実弥の自虐にも近い戦い方を心配していたが、結局は彼らの方が先に命を失った。その事ほど辛いものはなかった。
そんな殺伐とした日常の中、ほんの少し、そしてとても久しぶりに温かい気持ちになったのは、肉体的欲求を満たしたからだけではないだろう。
「蛍…」
誰もいなくなった部屋で実弥は、思わずその名を声に出していた。
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遅刻しかけの中、慌てて走りつつ、それでいて蛍の心は晴天のように晴れ渡り、抑えきれない高揚感が全身を包んでいた。走りながら次の目的地へと向かう中、自分の体の変化への戸惑いと期待が隠せない。
今なら空も飛べそうだ、とはよく言ったものだと思う。
体は軽く、視界は澄み渡り、五感の全てが研ぎ澄まされているのがわかる。
今の自分は確実に強い。走るだけでもそれがわかって面白かった。
(これが稀血の力……凄い)
現場に着いた頃にはやや息も上がっていたが、疲れを感じることもなかった。何キロ走ったかわからないが、まだまだ走れるぐらい体力が有り余っている。
あたりは宵闇が訪れたとは言え視界の良い平野だったので、どこか身を隠すところを探し始める。隊士が遅れているのだろうか、その姿は見当たらない。他の隠もまだ確認できなかった。
(……胸がどきどきする?)
先程まで肌を重ねていた男、不死川実弥のことを思い出す。酒に酔わされ熱に絆されていたような、それでいて記憶はしっかり残っていた。大胆な自分の行動が恥ずかしくもあり、そしてほんの少しだけ胸がチクリと痛む。