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十六夜の月【アイナナ短編集】

第5章 五夜目.雨




まさか、自分の方にも見合い話が持ち上がるだなんて予想もしていなかった。相手の女性には悪いが、本当に顔だけ合わせたら退席させてもらおう。その女性の父が粘ろうとすれば、その場で想い人がいると告げてしまってもいい。むしろそんな非礼を働けば、壮志の顔にこれでもかと泥を塗ることが出来るだろう。
壮五はそんなも妄想をしながら、拷問のような時間を車内で過ごした。

やがて到着したのは、アールロイヤルホテル。待ち合わせ場所に向かっているのであろう父親の背中に、無言で付いていく。深い真紅の絨毯は重厚で、僅かな靴音すら鳴りはしない。

父が立ち止まったのは、最上階にあるフレンチレストランの前。レセプションには支配人らしき男性が立っており、彼らが名前を告げずともスムーズな案内がなされるのだった。

通された個室からもダイニングルーム同様、窓の外には素晴らしい景色が広がっていた。しかしどんなに劇的な景色が臨めようとも、壮五の心が動こうはずもない。

室内には、上等な背広に身を包んだ齢四十ほどの男性が一人いた。どうして “二人” ではないのだろう。そんな疑問を抱くよりも先に、彼のあまりの顔色の悪さに驚いた。
滝のような冷や汗をかき震える唇で男は、逢坂さん…と呟いた。自分が呼ばれた訳でないことを、壮五は当たり前のように理解している。


「どうも、ご無沙汰しております。さきに紹介しておきましょう。子息の壮五です」

「はじめまして。逢坂壮五と申します」

「こ、これは、ご丁寧に…、は、はじめまして…!」


よほど気が動転しているのだろうか。男は自らを名乗ることも忘れて壮五に握手を求めた。差し出された手に、手を重ねる。そんなタイミングで壮志は再び口を開いた。


「それよりも…御息女のお姿が見えないようですが。如何なされましたかな」


壮五の手を握る男の手がビクっと強張った。

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