第1章 一夜目.5時限目の空
名前なんて、個を分かりやすく区別する為に存在するもの。だからべつに、上で呼ばれようが下で呼ばれようか構わない。そう思っていた。エリに出逢うまでは。
環がノートに全集中しているうちに、一織は思い切って尋ねてみることにした。
「どうして四葉さんのことは環と呼ぶのに、私のことは一織と呼ばないのですか?」
『え?分からないの?』
「分からないから訊いているんです」
『そっか。じゃあ逆に訊くけど、和泉くんは私のことを何て呼んでる?』
「中崎さん、と。……あ」
あ。と漏らした一織は、ようやく気付いたのだ。そう。エリが自分を苗字で呼ぶのは、他でもない自分が、エリを苗字呼びしているからである。
「では…仮に。仮にですよ?私も四葉さんのようにあなたのことを下の名前、もしくはあだ名で呼んだ場合、あなたは私のことをどう呼ぶのでしょうか」
『どうかな。試してみれば?』
エリの不敵な笑みを受け、一織は困ったような笑顔を浮かべた。わくわくするけれど、少し怖いような。恥ずかしいけれど、嬉しいような。そんな不思議な気持ちで胸が満ちる。
自分でも今どんな表情をしているのか分からない。そんな顔を彼女に見られるのはごめんとばかりに、隠すように腕を顔の前に持ってくる。そして目線は斜めに外して、初めてその名前を口にする。
「エリ、さん…」
『ふふ、はい。一織くん』
エリの唇が “一織” と動いたその刹那、彼の胸を満たしていた不思議な気持ちは吹き飛んだ。花畑に突風が吹き、数多の花弁が空に舞い上がる。そんなイメージ。空いた胸に新たに満ちたのは、この人が愛しいという感情ただ一つ。
『え、えへへ…。なんか、照れるね』
「そう、ですか?私はべつに、少しも恥ずかしくなんてありませんけど」
照れ照れでもじもじの二人を、環は密かに観察していた。
「……」
(やっぱ、勘違いなんかじゃねーじゃん。さっきは言わなかったけど、えりりんの方も、いおりんの方見てること多いんだよな。
あれ?なんて言うんだっけ。こーいうの。うーーん……あ!あれだ。そうそう。 “両片想い” ってヤツ )