第10章 オダマキ
「一歩前へ出てもらえますか?」
「?」
良心が動いたとか、人の為になりたいだとか、そんなことを考えたわけではない。
ただ単純に、蠅頭のせいで彼女が体調を崩し、パン屋がなくなってしまっては困ると思っただけ。
そんなことになれば、私は今後カスクートは何処で購入すればいいのかと思っただけ。
一歩前に出た彼女の肩についていた蠅頭を手で簡単に祓った。
「肩、どうですか?」
「え、はい、アレ!?軽い!!」
「違和感が残る様でしたら病院へ。失礼します。」
「あっ、ちょっと!!待って!!あのっ...!!」
何か質問されても面倒。
そのまま店を後にする私の背中に彼女の大きな声が届く。
「ありがとー!!また来て下さいねー!!」
“ありがとう”
「あれ!?聞こえてない!?ありがとー!!また!!来て!!ねー!!」
振り返らない私に、大きな声を届け続ける彼女。
その背中がとても温かく感じた。
しばらくの間忘れていた。
こんな感情を。
“生き甲斐”などというものとは無縁の人間だと思っていた。
スーツのポケットからスマホを取り出し、連絡先から久しく探すことのなかった名前を探し出し電話を掛ける。
「もしもし七海です。お話があります。ええ、明日にでも高専に伺い...何笑ってるんですか?」
電話の向こう側の相も変わらず軽薄な声は愉快そうに笑っていた。
奴の領域内、ふと高専へと出戻ったきっかけを思い出した。
あの会社には私しか出来ないことなんていうのはなくて。
私の代わりはいくらでも居る。
けれどもこの世界には私にしか出来ないことがあって。
少なからず居場所があり、必要としてもらえる。
ここには金には変えられないモノが多くある。
「今はただ君に感謝を。」
呪術の極地、領域展開を遂に会得したつぎはぎ呪霊が私に微笑み掛ける。
「必要ありません。それはもう大勢の方に頂きました。」
サングラスを外し、自身の最期に覚悟を決める。
「悔いはない。」
素直に心から自然と出た言葉だった。
“呪術師に悔いのない死など存在しない。”
高専時代からそう教えられ、自身でもきっとそうだと思ってきたはずなのに。
私は自身の最期に“悔いはない”と思えたのなら、きっとそれは稀にある幸せなことなのでしょう。