第37章 貴方の傍で
「あれ?信長様?」
商人の一人に話しかけられて店先を覗き込んでいた信長に、自身の名を驚いたように呼ぶ女の声が聞こえた。
「っ…貴様…」
「やっぱり信長様!人集りができていたから何事かと思ったら…こんな時間に城下にいらっしゃるなんて、どうなさったのですか?お仕事は…あっ、ご視察ですか?信長様とこんな所で偶然出逢えるなんて…」
「おい、朱里…落ち着け。貴様こそ、何故ここにおる?南蛮語の勉強はどうした?」
「あっ…えっと、今日はもうお終いなんです。これからお店が忙しくなる時間らしくて」
小首を傾げて口元に儚げな笑みを浮かべつつ、ぎゅっと大事そうに胸元に抱えるのは件の書物が入っているであろう風呂敷包みか。無意識の何気ない仕草ですら、こやつは愛らしい。
男どもが横を通り過ぎるたびに朱里にチラチラと好奇の視線を寄せているのが癪に障るが、当の本人は全く気付いていないらしい。
偶然俺に逢えたことが余程嬉しかったのか、惜しみなく愛らしい笑みを向けてくる。
(南蛮語を学ぶ朱里の様子を見ようと城を出てきたが、一足遅かったな。それならば……)
「もう帰るのか?」
「え?」
「暇なら付き合え」
「えっ…あっ、ちょっと…信長様っ??」
戸惑う朱里の手を取って引き寄せると、恋仲らしく指先を絡めて繋ぐ。ふわりと揺れた黒髪の間から覗く耳朶に唇を寄せると、ちゅっと音を立てて口付けた。
「っ…やっ…何を…」
「せっかく手に入れた自由な時間だ。存分に貴様との逢瀬を楽しむこととする」
耳朶への口付けに小さく身を震わせた朱里を抱き寄せて甘く囁く。
当初の目的とは違ったが、朱里と二人きりの時間を過ごせるのなら来た甲斐があるというものだ。
「んっ…だめです。こんな往来で…あっ、人が見て…」
耳朶から頬へ、瞼へと啄むような口付けを落とすと、朱里は慌てたように身を捩り、腕の中から逃れようとする。
人々の視線が恥ずかしいのか、頬が微かに赤く染まっているのが可憐で愛らしい。
「貴様を愛でるのに場所など関係ない、と言いたいところだが…せっかくの逢瀬だ。貴様の行きたい所へ連れて行ってやろう」
恋仲になったものの、絶えぬ戦や日々の政務に追われて日中に二人だけで過ごせる時間は限られていた。
日頃は城の中で過ごすことが多い朱里は安土の町のこともまだ詳しくは知らないだろう。
