第37章 貴方の傍で
「ほぅ…?ならば一度、民達に顔を見せねばならんな」
「……はい?」
「出掛ける。秀吉、後は任せたぞ」
言うが早いか信長は立ち上がって部屋を出て行こうとする。
「いやいやいや…ど、どちらへ?」
「言わずとも分かろうが。城下へ視察だ」
「お待ち下さい!今日はまだこのようにご政務が残っております。御館様に確認していただきたい祝いの文や贈り物も山ほどございますし、外出される時間の余裕など到底…」
渦高く積まれた書簡の山を指し示しながら言い縋る秀吉を横目に信長は不敵に笑う。
「それは貴様に任せる。良きに計らえ。城下の視察も政務のうちだ」
仰るとおり視察も大事な政務のうちだが、目の前には信長の決裁がなければ進まない案件が多々あるのだ。そちらを優先してもらわねばならぬのは自明の理である。良きに計らう訳にはいかない。
(だがしかし、御館様は朱里の様子を見に行かれるおつもりなのだろう。お止めしても易々とは聞いて下さらないはず。俺としても城下での朱里の様子は気になるところではあるし…)
「では…半刻(1時間)ほどでお戻り下さいますか?こちらはそれまでに整理しておきますので」
恐る恐る申し出た秀吉に信長はわざとらしく一つ大きく溜め息を吐くと、そのまま無言で執務室を出て行った。
出て行く信長を平伏して見送った秀吉は、遠ざかっていく足音に耳を澄ませる。
何処となく軽やかな足取りは信長の機嫌の良さを示しているようで秀吉の頬も自然と緩むのだった。
(御館様は変わられたな。以前ならご自身の感情をあのように表に出されることはなかった。常に政務が優先、ご自分のことは二の次にされるような御方だった。天下泰平のため戦に明け暮れる日々にいまだ変わりはないが、朱里がお側にいることで御館様がひと時でも穏やかな時間を過ごすことができるのなら…)
全ては主君の幸せのため、と秀吉は気合いを入れ直して山積みになった書簡へと手を伸ばすのだった。