第37章 貴方の傍で
流れるような筆遣いで書簡を認めていた信長の手が不意に止まる。
コトリと音を立てて筆を置くと、思わず小さな溜め息が漏れた。
「……どうかなさいましたか?御館様」
隣で書簡の整理をしていた秀吉は、信長の溢した溜め息に敏感に反応して声を掛けた。
「何か不都合などございましたでしょうか?」
「いや、問題ない。少し休憩する」
「はっ!それでは茶の用意をして参ります!暫しお待ちを」
「っ、いや、待て!」
「はい?」
サッと立ち上がり、茶の準備をするために出て行こうとする秀吉を信長は何故か引き止める。
そのまま主の次の言葉を聞き逃すまいと待つ様子の秀吉に対して、信長は苦虫を噛み潰したような表情で無意識に視線を逸らしていた。
揺るぎのない威厳溢れる常の様子とは異なる信長の姿に秀吉は小首を傾げる。
「御館様?」
「彼奴は…朱里は今日も居らんのか?」
「はっ…えっ、あっ…朱里…ですか?」
「いつもなら彼奴が茶を持ってくる頃だ。近頃はとんと顔を見せんがな」
不機嫌そうな信長の言い様を聞いて、秀吉は慌てて答える。
「朱里は近頃、城下へ出掛けているようです。南蛮語の習得に励んでいると三成からは報告を受けておりますが、御館様へはお伝えしておりませんでしたか?」
「いや、聞いてはいる」
「は、はぁ…そうですか」
(御館様は朱里が城下へ行っていることがご不満なのか?南蛮語を学ぶことには反対されなかったと聞いているが、このご様子だと…どう見ても不満そうだよなぁ…)
明らかに不機嫌そうな様子の信長に秀吉はどうしたものかと内心気が気ではなかったが、そうかと言って朱里を呼び戻すわけにもいかない。
朱里が頑張っているのを知っている手前、邪魔はしたくないが、信長の機嫌が悪くなることも避けたいところではあった。
(どうしたらいいんだっ…な、何か別の話題でも…)
「御館様っ、今年もまもなく御生誕の日が参りますが、例年以上に盛大な宴の準備しておりますのでご期待下さい!」
「は?あぁ…もうそんな時期か」
(急に何を言い出すのかと思えば….そんなもの気にもしていなかったな。朱里のことならいざ知らず、正直、自分の生まれ日など、どうでも…)
「城下も日に日に賑わいを見せております。皆が御館様の生まれ日をお祝いせんと張り切っておるのです!」
秀吉は我が事のように誇らしげだ。
