第35章 昼想夜夢
信長の姿を見た侍女達は予想外のことに大慌てであった。
奥を取り仕切る正室である朱里が不在の中、城主である信長が急に奥御殿を訪れるなど、侍女達にしてみれば寝耳に水の一大事である。自分達の仕事ぶりに粗相があったのではと不安になるのも仕方がなかった。
「あのぅ…御館様?私どもに何か不手際などございましたでしょうか?」
「いや…皆、大義である。こう暑いと何かと疲れも溜まるであろう。朱里もおらぬゆえ、皆、ゆるりと過ごせ」
「お、御館様っ!なんと勿体ない御言葉をっ…」
思わぬ労りの言葉に侍女達は感激の表情で信長を熱く見つめたが、それがまた何とも居心地が悪くて、早々に退散してきたのだった。
(こんなはずではなかった。こんな訳の分からぬ思いをすることになるなど…)
朱里や子供達が数日城を空けるぐらいどうということはない。
先日の京行きでは信長が強硬に反対して後々まで気まずくなったこともあり、今回は最初から寛容な態度で朱里の願いを聞き入れることにしたのだ。
行き先も領内の勝手知ったる別邸であることから警護の目も十分に行き届き、危険なこともないだろうと判断した。
秀吉も不在になるが表の政務に支障はないし、特に問題は生じないと思っていた。
近しい者が全員いなくなるが、それで自分の周りの何かが変わるなどとは想像もしていなかったのだ。
(朱里と子供らがおらぬだけで城がこんなにも静かだとは…)
普段なら吉法師がはしゃぐ声や活発に走り回る音、女達が楽しげに談笑する声など賑やかな音が絶えなかったのが、今や嘘のように静まり返っている。
皆、いつもどおりに仕事をして、日々のことは滞りなく営まれているが、城内は火が消えたように寒々しく、働いている者もどことなく活気がないように見える。
朱里に出逢うまでの信長は城内のことに特別な関心などなく、そこで働く者達がどのような心持ちでいるかなど考えたこともなかった。
静かであろうと居心地が悪いなどと感じることもなかったのだ。
賑やかな城内、明るい笑い声が絶えない環境は、朱里がいてこそなのだと改めて思い知らされた気がする。
朱里はいつも城の中にいて、いつでも信長の傍にいるのが当たり前になっていた。
当たり前すぎて分からなかったのだ。
朱里の存在が城の者にとっても信長にとっても、欠けてはいけないものになっていたことに……