第35章 昼想夜夢
「……様、御館様?」
襖を開けたままその場に立ち尽くしていた信長に、廊下を偶然通りがかった家臣が呼び掛ける。
「御館様、どうなさいましたか?」
「ん、あ、ああ…」
「只今は姫様はいらっしゃいませんが…何かございましたでしょうか?」
「いや、それは分かっている。別に…何もない」
気まずそうに目線を逸らす様子はいつもの信長らしくない。
別に見咎められたわけでもないのに、何とも言えない後ろめたさを感じてしまい、思わず勢いよく襖を閉めてしまった。
パシッと大きな音を立てて閉まった襖に、家臣の男はビクリと身を震わせた。
「も、申し訳ございませんっ…差し出がましいことを申しました」
信長の怒りを買ったと思ったのであろう、家臣の男は慌てて平伏する。見れば微かに身を震わせている。
感情を表に出さない信長は滅多なことでは声を荒げないが、世間ではいまだ魔王と恐れられる男である。家臣達がその一挙手一投足に敏感に反応するのは致し方ないことかもしれない。
しまったと思ったが、後の祭りである。
「はぁ…よい。もう下がれ」
「ははぁー!」
家臣の男は額を床に擦り付けてもう一度深々と頭を下げると、慌ててその場から去っていった。
(要らぬ気を遣わせたようだ。そんなつもりではなかったのだが…)
家臣が去った後、その場はシンっと静まり返っていた。
それもそのはず、信長が訪れていたのは結華の部屋であり、結華と乳母の千鶴は朱里とともに学問所の催しに出掛けているから、当然部屋には誰もいないのだ。
そんなことは分かりきっているはずなのに、気がつけば足がこちらに向かっていた。
襖を開き、がらんとした部屋の中を見た瞬間、信長の心の中もぽっかりと穴が空いたような妙な気分に襲われて、思わずその場から動けなくなってしまったのだ。
「何をやっているのだ、俺は…」
実は同じようなやり取りを先程もしてきたばかりなのだ。
政務もそこそこに朝から奥御殿の朱里の部屋を訪れた信長に侍女達は戸惑いを隠せないようだった。
「お、御館様っ!?如何なされましたか?奥方様はいらっしゃいませんが…」