第35章 昼想夜夢
夜の静寂(しじま)に、衣擦れの音がやたら大きく響く。
広すぎる寝台の上で何度目か分からぬ寝返りを打ちながら、信長は天井を睨み据える。
(眠れん…)
元々は眠りが浅く、ろくに眠らずとも平気な性質(たち)である。
眠れないことはさして苦ではなかったはずなのだが、今宵はどうしたことか苛立ちが募る。
夜も更けて城の中は静まり返っており、己の息遣いだけがやたらと耳障りに聞こえるせいかもしれない。
「っ…朱里っ…」
一人寝には余る寝台の大きさが空々しく、愛しい女とともに休む夜が当たり前になっていた穏やかな日常を改めて感じさせられる。
「静けさがこんなにも苦になるとはな」
信長は自嘲気味に小さく吐息を零すと、気怠そうに身を起こした。
一向に訪れない眠気に諦めをつけ、廻縁へと足を向ける。
障子を開けると、大きな丸い月が煌々と光を放っていた。
今宵は満月で、月は一つところも欠けることなく、地上を照らしている。
「望月の欠けたることも無しと思へば、か」
ーこの世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば
この世はすべて私のためにあるのだと思う。 満月が欠けることなく完全なものであるように、この世のすべてが我が意に満ち足りていると思うから。
平安時代、天皇の外戚として大いに権勢を誇った貴族、藤原道長が詠んだ歌で、望月の歌としても知られている有名な歌である。
煌々と輝きを放つ月を見て思わず口を突いて出た歌は、信長の心情とは程遠いものだった。
天下人として比類なき権勢を誇り、帝や朝廷にも大きな影響力を持つ信長は、在りし日の道長のようにこの世の全てが我が意に満ち足りていると言っても過言ではない。
官位など、人から与えられる地位には重きを置かないため、太政大臣にまでなった道長とは違い無官の信長であったが、朝廷を支えて日ノ本の政を実質的に動かしている男には何一つ欠けたものなどないように思われた。
が、今宵の信長の心情はこの世の全てを手に入れた男のものとは思えないほど不安定に揺れていた。
この感情が何なのかは分からない。分からないが、酷く落ち着かない。何かが欠けているような、足りないような…
頭上に輝く見事な満月は何一つ欠けたところなどないというのに、その下にいる自分はといえば……