第34章 依依恋々
「忍びで行けば分からぬだろう」
「何ということを仰るのですか!御館様が密かに京へ…などと万が一でも公家衆に知られては変に勘繰られて面倒なことになりかねません。第一、忍びの旅では供も十分に付けられず危険です。断じて認められません!」
「むっ…」
秀吉からの思わぬ横槍に信長は不機嫌そうに顔を顰める。
朱里の願いは叶えてやりたいが、慶次と二人で行かせるのは認められない。京の都のことならば、慶次よりも自分の方が詳しいのだから自分も朱里と共に行けばいい。そうすれば万事解決、そう思ったのだが…
「信長様、ご心配には及びません。私、慶次と一緒なら大丈夫ですよ」
(くっ…それが心配だと言うに…)
健気な朱里は信長を安心させようと言葉を重ねる。人を疑うことを知らぬ純粋な心の持ち主である彼女は、夫の心配がどの辺りにあるのかなど知る由もない。
(信長様と一緒に京へ行けるならそれに勝る喜びはないけれど、秀吉さんの言うように信長様のご上洛ともなればそんなに簡単なことではないよね)
朱里が信長の上洛に同行したのは数えるほどだが、京に滞在中の信長は内裏へ参内するだけでなく、宿所へ次々と訪れる公家衆との謁見などで常に多忙を極めている。天下人が一たび上洛するともなれば、周りへの影響は計り知れないのだ。
更には、お忍びでの上洛に秀吉が難色を示すのも頷ける。帝の住まう京の都へは多くの軍勢を入れることは許されておらず、上洛時の信長の身の回りには毎回最小限の兵しか付けられないでいた。
上洛の際は秀吉が少ない兵でも事足りるように信長の警護に細心の注意を払っているが、これが忍びでの上洛となるとそうはいかない。
「ならば…秀吉、今すぐ朝廷に上洛の許可を取れ」
「今からなど到底無理です。上洛の準備ともなれば何ヶ月も前から入念に致さねばならぬものですし…そもそも今、御館様が上洛なさる理由がございません」
「理由など何でもよいだろうが。常日頃、朝廷からは頻繁に呼び出されておるのだからな」
「そうは参りません。理由もなく上洛などできませぬ」
「ちっ…」
大坂に城移りしてからというもの、朝廷からは些細なことでも上洛を求められることが増えているが、信長は忠実に武家の勤めを果たしているのだ。たまには明確な理由などなく気まぐれに上洛しても別に差し支えあるまいと言いたくもなる。