第34章 依依恋々
「秀吉、よい」
「はっ…失礼致しました」
信長の一声でさっと引き下がった秀吉だが、信長と朱里、双方の表情を気掛かりそうに窺っている。
「朱里、その件は罷りならんと言ったはずだ。慶次にも俺から断りを入れた。諦めよ」
「っ…どうしてもダメですか?今回だけ…今回だけでいいのです。私の我が儘を聞いていただけませんか?連歌会が終われば、すぐに戻りますから…」
「…何故、それほどにこだわる?貴様が源氏物語を好むことは存じておるが…さほどに好きなら後日その連歌師を大坂に呼べばよい。
此度、貴様が京へ出向かずとも俺が貴様の願いを必ず叶えてやる。それでよいであろう?」
「それは…そうなんですが…」
慶次の師匠から源氏物語の講釈を聞きたいのなら大坂に呼べばいい、結果的には同じことだという信長様の言い分は正しいのかもしれないが、既に京へ行きたい気持ちになってしまっている私はそう言われても納得できなかった。
「お願いしますっ、信長様」
「朱里…」
深く頭を下げて頼む朱里を、信長は何とも言い難い表情で見る。
朱里がこんな風に信長に頼み事をすることは珍しく、日頃は我が儘など言わない控えめな性質なのだ。それ故に愛しい妻の滅多にない願い事とあれば、信長としても聞いてやりたいところだった。
(慶次と京へ行きたいと言うから思わず頭に血が上ったが…愛しい女にこのように熱心に頼まれれば、さすがに俺も心が揺らぐ。くっ…あのような目で訴えるなど反則だろう)
「…頭を上げよ、朱里。俺としても貴様を悲しませたいわけではないのだ。そこまで望むなら…許してやってもよい」
「!?本当ですか?ありがとうございます!」
「待て。但し、俺も一緒に行く。それが条件だ」
「えっ…」
「御館様っ!それはなりません!」
「秀吉は黙っておれ」
「いいえ、御館様がご上洛なさるなど…そのような大事なことを簡単にお決めいただいては困ります!天下人の上洛となれば、それ相応の準備が必要ですし、そもそも朝廷の許可をいただかねば勝手に上洛できぬことはご存知でしょう?」
「上洛などと大袈裟な…ちょっと京まで行くだけだ」
「ちょっと、って…」
城下へちょっと散歩に出るような軽い調子で言う信長に秀吉は慌てる。