第34章 依依恋々
「やっぱり反対されたか。まぁ、御館様がお前を一人で旅に出すわけないよなぁ」
「旅だなんて大袈裟な…大坂と京はさほど離れていないし、慶次と一緒なら一人じゃないでしょ?けど、とにかく碌に話を聞いて下さらなくて…かなり怒らせてしまったような気がする」
「ああ…そうみたいだな」
一瞬で射殺されそうな冷たい炎の瞳を思い出し、慶次は密かに身を震わせた。
今朝の軍議の終わりに、慶次は信長から朱里を京へ連れて行くことは罷りならない旨をきつく言い渡されたのだが、その時の信長からは思い出すのも恐ろしいほどの怒気が溢れていた。
それは周りにいた歴戦の武将達を凍りつかせるほどの雰囲気で、信長が退席した後、慶次は秀吉から散々に叱言を言われる羽目になったのだった。
(正直、御館様の朱里への執着があれほどとは思わなかった。これじゃあ城を出るだけで一苦労だな)
朱里が入れてくれた茶を啜りながら、慶次は先行きの多難さを憂いていたのだが……
「ねぇ、慶次。私、やっぱり京へ行きたい。連れて行って」
日頃は控えめで我が儘など言わない朱里にしては珍しい。信長の猛反対に合っても折れる気はない様子に意外な思いがする。
「お前がそこまで言うとはなぁ。源氏物語、そんなに好きだったのか?」
京で連歌会と聞いて最初は及び腰だった朱里だが、慶次の師匠が源氏物語の講釈をすると知った途端に乗り気になった。
聞けば少女の頃から物語に親しみ、源氏物語は今でも何度も読み返すほどだと言う。
「お前が一緒に来てくれたら俺も世話になった師匠に恩返しができるってもんだが、御館様のお許しなしに大坂を出るのは正直厳しいだろ?」
「う…信長様にはもう一度お願いしてみるよ。その、結華のことも…」
「あー…それ…なぁ…」
師匠から『紫の上のごとき姫を』と言われ朱里のことを話した際に、慶次はうっかり結華の話もしてしまったのだった。
天下人が溺愛する愛らしい小さな姫君と聞いて、すわ『若紫』か『明石の姫君』か、と師匠が大興奮して『是非ご一緒に京へ』と言い出したのだ。連歌会などもはや口実で、単なる好奇心だろう。
(朱里だけでなく結華も京へ、なんて御館様が許すわけ…ないよなぁ。これは前途多難だぜ)
今更後悔してもあとの祭りだが、我ながら随分と無茶な頼み事をしてしまったものだと思い、慶次は似合わない溜め息を吐くのだった。