第34章 依依恋々
信長様が私のことをそんな風に心配してくれていることは嬉しかったが、今回のことは慶次の役に立ちたいという思いだけで決めたわけではなく、寧ろ純粋に連歌会に興味を惹かれたからだった。
(慶次のお師匠様が『源氏物語』の講釈をなさるって聞いたから…)
そもそも和歌の技法には、古典文学の場面を踏まえた場面選びや、古の歌の語句などを取り入れる『本歌取り(ほんかどり)』と言われる技法があり、和歌を嗜む者は古典文学にも精通していないといけない。古典文学の代表は『源氏物語』や『伊勢物語』であり、華やかな王朝絵巻は公家達だけでなく戦に明け暮れる武将達にも教養の一つとして親しまれていた。無論、武家の子女達にとっても煌びやかな物語は憧れの的であった。連歌会を催し各地を回る連歌師達はしばしば指導の中で『源氏物語』の講釈を行っていたと言われている。
『師匠が、源氏物語の講釈をするなら『紫の上』のごとき美しさの姫君が必要だって言うもんでな。で、お前の話をしたら師匠は大喜び、他の参加者も『是非お会いしたい』ってことになってなぁ』
慶次は大きな身体を縮こまらせて申し訳なさそうに私に言ったが、少女の頃から憧れてきた源氏物語の世界に触れられると想像しただけで、私の心は早くも京へと飛び立ちそうになったのだ。
(雅やかな紫の上に自分が例えられるのはおこがましいとは思うけど…こんな機会は滅多にないから行ってみたいと思ってしまったんだよね…)
「信長様、私は…」
「とにかく、この話は終いだ。慶次には俺から断りを入れておく」
固い口調でそう言い切ると、信長様は羽織を翻し、出て行こうとする。
「ま、待って下さい、信長様。もう少しお話を…」
引き止めようと慌てて後を追おうとするが、苛立ちが収まらないのか信長様は荒々しい足音とともあっという間に行ってしまった。
取り残された私は、行き場のない思いを抱えて呆然と立ち尽くすしかなかった。
(どうしよう…もの凄く怒らせちゃったかも。しかも…話の続きがまだあったのに…)
信長から予想以上の猛反対に合い出鼻を挫かれてしまったが、実を言うと慶次から連歌会への誘いを受けたのは私だけではなかったのだ。
そしてそれは信長の怒りに更なる火を付けることになったのだった。