第5章 信長の初恋
尾張の国がまだ一つにもなっていない頃、俺は幼き頃から父母と離れ、乳母と傅役とともに那古野城で暮らしていた。
傅役の平手政秀は、父、信秀の重臣で、茶の湯や和歌、有職故実にも秀でた優秀な外交官であり、京の公家衆とも交流がある文化人でもあった。
その頃の俺は、『尾張の大うつけ』と呼ばれ、身内や家臣どもからも疎んじられていた。
政秀が求める、城主としての折り目正しい振る舞いなど、戦になれば何の役にも立たん。
そんなくだらぬことに時間を費やすのは馬鹿げている。
日がな一日城の中で書物に向かっているよりも、野山を駆け回り、百姓達と一緒になって田畑に入り、自分の目で、耳で、尾張の国を知ることの方が、余程有益だと思っていた。
「若〜っ、三郎様っ、どこに行かれたのだ?」
常に冷静沈着で、家中でも一目置かれる存在だった政秀だが、信長の傅役となってからというもの、気の休まる日は一日としてなかった。
とにかく、信長はじっとしていない。
今も、部屋で手習いをさせていて、やけに静かだと思って覗いてみたら、部屋はもぬけの殻、落書きだらけの半紙が散乱している有り様だった。
慌てて城内を探し回る自分の姿も、那古野城の日常となっている。
いい歳をして廊下を走り回る自分を、弟君である信勝様の家老達が陰で嘲笑していることも知っている。
家老達は若のことも軽んじていて、『うつけの若君の傅役など気の毒に』と、あからさまに政秀を蔑んでくる。
だが…これほど振り回され、困らせられても、政秀は信長を愛してやまないのだった。
すぐにどこかへ行ってしまわれる若が心配で堪らない。
お一人で城下外へなど、若の身に何かあっては…そう思うと居ても立っても居られなくなり、年甲斐もなく取り乱してしまうのだ。
「っ…平手様っ!」
廊下の角を勢いよく回ったところで、前から来た者とぶつかりそうになり、慌てて距離を取る。
「勝三郎っ…お前っ、若と一緒ではないのか?」