第34章 依依恋々
「ちょうちょさん…いっちゃった…」
無邪気な捕獲者の手をすり抜け続けた蝶は、ふわふわと舞い踊りながら緑が眩しい庭へと戻って行った。
当然のように追いかけて庭へ飛び降りようとする吉法師を慌てて引き止めたのは、吉法師を追いかけてきた母、朱里であった。
「はぁ、はぁ…吉法師ったら、急にいなくなるんだから…心配したよ」
城中あちこち探し回ったのだろう、乱れた息を整えながら吉法師を背中からぎゅっと抱き締める。
心配だった気持ちは勿論本当だが、抱き締めていないとすぐに駆け出してしまうような危うさも感じていた。
母の腕の中で窮屈そうに身動ぎながらも、吉法師は不満そうに頬を膨らませながら庭の方をじっと見つめている。
思うように蝶を捕まえられなかったことが余程口惜しいのだろう。
(負けず嫌いなところは信長様にそっくり…可愛い)
吉法師の子供らしい愛らしさに自然と表情を緩めながらも、朱里は結華の方に向き直った。
「ごめんね、結華。邪魔をしてしまって…文を書いていたの?」
娘の背後の文机の上にチラリと視線を向ける。
書きかけだった文は墨がすっかり乾いてしまっていた。
「ええっと…新九郎くんへ、かな?」
「っ…はい」
ぱっ、と頬を赤く染め上げた結華は恥ずかしそうに母の視線を避け、膝の上で重ねていた両手をもじもじと動かした。
白木蓮のような色白の頬が桜色に染まる様子が、子供ながら可憐で愛らしい。
「先日頂いたお文の返事を書いておりました」
「そうなのね。新九郎くんとはまめに文のやり取りをしているけど…また会いたいわね」
「はい、母上!」
新九郎くんは播磨国の大名、彌木家の嫡男で結華より四歳上の若者である。結華と新九郎くんは新九郎くんが父親とともに信長様に挨拶に訪れた際に出逢って以来、定期的に文のやりとりをするなど子供同士で交流を深めていた。
彌木家は、信長様の西国支配において重要な地に領地を有しており、織田家の傘下に入っている。
その領国は規模こそ大きくはないが、西国の守りを担う役目を果たしており、当主である彌木忠真は温厚な人柄だが智将としても知られた人物で織田家とも良好な関係を築いていた。