第34章 依依恋々
庭の青紅葉が目にも鮮やかな皐月の頃
障子を開け放って外の風を入れていると、一羽の蝶が舞い込んできた。ひらりひらりと優雅に舞う姿を目で追っていると、白い蝶は少女の手元にあった硯箱の上に音もなくふわりと舞い降りた。
(まぁ…)
思わず息を止め、文を書きかけていた手も自然と止まる。
その拍子に筆先からポタリと墨が落ちて小さな黒い染ができてしまったのを見て、少女は僅かに悩ましげな表情を浮かべた。
それでも一服の休息を求める蝶を驚かせまいと微動だにしないところは、少女の年齢以上の意思の強さを感じさせた。
蝶はその場に止まったまま羽をふわりふわりと羽ばたかせている。
白い羽からは今にも鱗粉が零れ落ちそうな気がして、見ているだけでむせ返るような息苦しさを感じてしまう。
堪らずに小さく息を吐こうと桜色の唇を開きかけたその時……
「ねぇねっ!あそぼ!」
甲高い元気な声とともに、スパーンっと勢いよく襖が開かれた。
(あっ…)
少女がびくっと肩を震わせたのと同時に、蝶はふわりと舞い上がった。
「あーっ、ちょうちょ!」
勢いよく襖を開けた吉法師は、白い蝶の羽ばたきに目敏く気付いて再び歓喜の声を上げる。
タタタッと軽やかな足取りで部屋に入って来ると、早速に蝶を追いかけてちょこちょこと歩き回る。
「ねぇね、ちょうちょ!」
興奮した様子で翔び回る蝶を捕らえんとする吉法師だが、白い蝶の動きに翻弄されて彼方へ此方へとふらふらしている。
いきなり飛び込んできた吉法師に内心驚きながらも、結華は姉らしく落ち着いた振る舞いで無邪気な弟を諭すのだった。
「吉法師、蝶は捕まえてはダメよ。外へ出してやらないと」
「やっ!ちょうちょ、きち、つかまえる!」
突然の小さな乱入者は偶然見つけた蝶に一瞬にして心を奪われてしまったようだ。
大好きな姉の言葉に耳を貸すことなく、吉法師は夢中で蝶を追いかけ回す。
(もぅ、吉法師ったら…そんなに追いかけても蝶は捕まえられないのに…)
翔び回る蝶を素手で捕まえるのは至難の業だ。
万が一捕まえられたとしても、力の加減を知らない幼い吉法師のことだ、脆くも儚い蝶を握り潰してしまうのではないかと思うと気が気ではない。結華は吉法師を手伝うフリをしながらさり気なく蝶を外へと誘導するのだった。